パラ陸上・生馬知季選手

パラ陸上・生馬知季選手

地平線の下に沈んだ太陽が、残り火が燃えるような色合いを空に残している。
その火を鎮火するように、夜の闇がじりじりと覆い被さっていく。
競技場の入り口付近には、支柱に布地を張ったテントが立てられている。
競技を終えた選手がユニフォームの上にジャージを羽織ったり、レーサーから日常生活用の車いすに乗り換えたりするための場所だ。
テントの位置は東西南北の西に当たるようだ。
夕刻になると、テントの白い布地が無地のキャンバスのようになり、移り変わる空の色を際立たせた。

テントの前にある小さな広場には、ファストフードや飲み物などを提供するキッチンカーが数台出ており、土産物を売る売店も並んでいる。
競技を終えた選手たちやスタッフ、観客たちが集まり、談笑していた。
11月7日から15日まで開催されるパラ陸上世界選手権は、大会3日目の夜を迎えていた。

生馬は、所属先が同じ選手のレースを応援しにきた。
その選手がテントから出てくるのを待ちながら、広場でくつろいでいた。
記者が声をかけると、生馬はスマホを取り出して100m準決勝の動画を見せた。スタートからゴールまでレースを一通り見せた後、ふたたび、スタートに戻して序盤に注目するよう促した。

「スタートから5漕ぎ目、ここで左手が滑ってしまったんです」
指摘された瞬間に目を凝らすと、レーサーがほんのわずかに横にぶれている。
ハンドリムを押し出すはずの左手が滑った様子までは映像でとらえきれていなかったが、前へ前へ速度を上げて進んでいく過程で、一発の漕ぎ損じが横に揺れる動きを招いたことは分かった。
生馬は序盤に躓き、態勢を崩していた。
速度を上昇させていくために使うはずだった力を、態勢を立て直すために使わなければならなくなった。
その結果、思い通りに速度を上げることができず、伸びなかった。
他の選手に先に行かれた。
決勝3着以内で決勝に進出するという計画は崩れた。
タイムも予選より落とした。

生馬を指導している松永仁志は、「ごく稀にああいう漕ぎ損じのミスが起こることがあったんです」と話した。
レーサーを漕ぐ時にほんのわずか腰の位置が上がり、その結果、ハンドリムに手を置く位置や角度がずれる。
それが、こぎ損じにつながる。
めったに起こらないことだが、世界選手権の100m準決勝で起こった。

決勝進出が掛かる世界選手権の重要なレース。
国内の大会で走るのとは異なる緊張があったのか。
良い結果を出そうといつも以上に力が入り、ほんのわずかに腰が上へ動いたのか。
レースに集中した結果、いつも無意識で気を付けていることが抜けてしまったのか。
意識していれば防げることが起きた原因は、一つではないのかもしれない。 

生馬は、漕ぎ損じがあったことを準決勝敗退の言い訳にしているわけではなかった。
目標達成できなかった悔しさを吐露しているわけでもなかった。
ただ、100m準決勝の動画を第三者に見せながら、敗退したレースで自分がどのような走りをしたか。
どこで、漕ぎ損じが起こったか。
その結果、どうなったかを説明した。
事実を事実として説明しながら、その事実だけを胸の中に刻み付けているようだった。

世界最高峰の大会、パラリンピックの舞台に立つ。
生馬が今、追求しているのは、それだけだ。
そのために必要なものは何なのか。
100mの序盤から中盤、終盤の走りの中で、自身の何を伸ばせるのか。
スタートから序盤でより速く前へ出る漕ぎの技術なのか。
中盤にかけて速度を上昇させていく加速の方法なのか。
自分が出せる最高速度をさらに上げることなのか。
ゴール前の終盤で、伸びのある走りができることなのか。
ミスをしないことも含めて、自分自身の走りの強化を考え始めているのかもしれない。

2020年東京パラリンピック日本代表推薦につながる次のチャンスは、2020年4月1日までのWPAランキングで6位以内という条件を満たすことだ。
世界選手権の後、WPAランキング上昇につながる国際大会は、2020年1月にオーストラリアで開催されるほか、複数の大会の開催が予定されている。ランキング6位以内を目指す戦いは、始まっている。【了】

取材・執筆:河原レイカ
写真提供:小川和行