石井雅史選手(写真左)

石井雅史選手(写真左)

 『競輪選手を引退する時に、知人から「障害があっても、自転車競技をやりたければ、パラリンピックがあるよ」と教えてもらっていました。当時のパラサイクリング連盟の関係者も紹介してくれたんです。
 私は、パラリンピックに出たいというよりも、障害があっても自転車競技ができるということで、パラサイクリングを選んだんです。
小学生の頃から、夢は競輪選手になることでした。
高校から自転車競技を始めて、それからずっと自転車一筋です。
自転車と一緒に寝てもいいくらい。
どこかへ行く時には、自転車に「今日は、どこへ行こうか?」と語りかけているんです。
自転車を単なる道具とは思えないんです。
少し言い方を変えると、自転車は、私の分身のようなものなんです。
自転車があると安心するんです。これがあるから、大丈夫だと。

 自転車競技ができるのが嬉しくて、2006年に、パラサイクリングの全日本選手権に出場したんです。
その時のタイムは1000mで1分18秒でした。
競輪選手としては1分15秒を切らないと通用しません。
ですから、1分18秒は、私にとってはそれほどすごいタイムではなかったんです。
それでも、障害のある選手の中では1番のタイムでした。
それから、パラサイクリング連盟の強化指定選手の合宿に一緒に参加させていただけるようになりました。
アメリカ、ヨーロッパなど海外遠征に行くようにもなりました。
海外の有力選手たちと走る機会ができて、自分も力を付けたいと思うようになりました。

2007年8月に、フランスのボルドーで世界選手権(2007 UCI Paracycling World Championship)がありました。
ロードレースは、2006年の世界選手権で優勝したチェコスロバキアのボウシュカ選手と私が、前半で落車をしてしまったんです。
倒れた自転車を起こしながら、2人で「後から、追うぞ!」と声を掛け合いました。
7周走るコースだったのですが、残りの2周で、前を走っていた選手に追いつけた。
その時、私は、心の中で、一緒に走ってきたチェコの選手が優勝すればいいやと思っていたんです。
ところが、日本チームの監督やスタッフが日の丸を持って立っているのが目に入りました

「石井、行け!メダルを獲れ!」
ものすごい声援が聞こえてきて、そこで、ハッとしたんです。
自分が勝ちにいかなくてはいけないと思ったんです。

その時、ちょうど残り500mを示す看板が見えました。
それで、千葉の競輪場が1周500mなのを思い出したんです。
千葉と同じだと思ったら、すごく冷静になれました。
ラストスパートをかけるのはまだまだこれからだと抑えていって、残り200mを切ってから一気に前へ出て、ゴールの間際で先頭に出ることができたんです。

「やった!勝った!」
先頭でゴールできたのを喜んでいたら、後ろからライバルの選手たちが近づいてきて、私のお尻を叩くんです。
「コングレッチュレーション!おめでとう!」と言ってくれて、驚きました。
負けた選手たちは心の中では、悔しいはずです。
自分の勝ちではないのに、私にお祝いの言葉を伝えに来てくれました。
海外の選手たちの勝者を讃える姿勢に胸を打たれました。

表彰台の一番高いところに立って、君が代を聞いたら、涙がダーッと流れてきました。
日本チームの監督、スタッフたちも喜んでくれて、本当に嬉しかったです。
優勝のお祝いをしていただいて、しばらく経って落ち着いた頃、日本チームの監督から声を掛けられました。
「石井、来年、頑張れよ」と言われたことを覚えています。
「北京のパラリンピックで、絶対、金メダルを獲れ」と言われたんです』

石井の話は、私の想像を駆り立てた。
ボルドーの雲一つない青空、新緑の木立に囲まれ、真っすぐに前方に伸びているロード。
2人の選手が倒れた自転車を起こしながら、声を掛けあっている。
「これから、前を追いかけるぞ!」
自転車を漕いでいる石井の視界に、前方を走っていた選手の背中が少しずつ近づいてくる。
レースの終盤、残り500m。
日本チームのスタッフたちが、日の丸を振って応援している姿が浮かぶ。

石井は、はっきり覚えているのだ。
2007年の世界選手権、勝敗を分けた残り500mからの展開を鮮明に記憶している。
何が見えたのか。
誰の声が聞こえたのか。
その時、自分が何を考えていたのか。
記憶の中にある鮮やかな情景を伝えている。
「それなのに…」と、私は、胸の中でつぶやいた。
10年以上も前の出来事を鮮明に記憶できる脳は、毎朝、新聞で確かめなければ今日が何月何日なのか分からなくなるのだ。

「競輪選手だった頃と、パラサイクリングの選手になってからとで、競技をする時の気持ちは変わらないですか。
それとも何か変化がありましたか」

『パラサイクリングの監督からは、「ビジョンを持て」と言われました。
競輪の現役時代にも同じことを言われていましたけど、自分はビジョンと呼べるようなものを持っていなかったです。
競輪選手は走れば賞金を貰えるので、それで満足していて、ビジョンなんてそれほど考えていなかったんです。

パラサイクリングの監督から、「北京で金メダルを獲って、表彰台の真ん中で日ノ丸を上げることだろ。
君が代を聞けるのは真ん中だけだぞ。それをビジョンとして持たなかったら、厳しい練習の意味がないぞ」と言われたんです。
記憶障害があっても、その言葉だけは残っています。
自分でも「日ノ丸を上げて、君が代を流すぞ」という気持ちを、ずっと胸にに置いて練習をするようになったんです』
(つづく)

(取材・撮影:河原レイカ)