20世紀を代表する残虐な独裁者たちは、永遠にその名を歴史に残した。一方で、彼らの子孫たちについてはあまり知られていない。ベニート・ムッソリーニ、ヨシフ・スターリン、ポル・ポトなど、悪名高き彼らにも、存命の子孫がいる。政治家になった者もいれ By Robert Gellately. The American Historical Review, Vol. Hartston, William. 青木文庫. Michael Ellman, ", Simon Sebag Montefiore. 1901年11月、スターリンは1898年創立のマルクス主義政党ロシア社会民主労働党(RSDLP)のトビリシ委員会委員に選出され[49]同月、スターリンは港湾都市のバトゥミに移動し[50]、そこでは、自身の好戦的な主張によって当地で活動するマルクス主義者らの間に不和が生じたため、一部ではスターリンを帝国政府から送り込まれた煽動者であると疑う向きも現れた[51]。ロスチャイルド家が運営するバトゥミの製油所で雇われたスターリンは、その職場で労働者のストライキを2度にわたって共謀し、実行させた[52]。ストライキを首謀したうちの数人が逮捕された後、スターリンは大規模な抗議デモを組織したが、デモ隊が監獄を襲撃したことで軍隊が参加者に発砲し、13人のデモ参加者が死亡する事態となった[53]。犠牲者たちの葬儀の当日、スターリンは再び大規模な抗議デモを組織したが[54]、1902年4月、ついに当局によって逮捕された[55]。当初、スターリンはバトゥミ監獄に収容されていたが[56]、後にクタイシ監獄に移送され[57]、1903年中頃には東シベリアへの3年間の流刑を宣告された[58]。, スターリンは1903年10月にバトゥミを離れ、11月末にシベリアのノヴァヤ・ウダ (Novaya Uda) という小さな街に到着した[59]。スターリンは2度にわたりノヴァヤ・ウダからの脱走を試みたが、最初の脱走は失敗に終わり、バラガンスク(英語版)に到達したところで凍傷のため引き返した[60]。1904年1月、スターリンは2度目の脱走を試み、今度はトビリシまで戻ることに成功した[61]。トビリシに戻った後、スターリンはフィリップ・マハラゼと共同でマルクス主義の新聞『プロレタリアティス・ブルゾラ(英語版)』の執筆を行う[62]。スターリンが流刑になっている間、ロシア社会民主労働党はレーニン派の「ボリシェヴィキ」と、ユーリー・マルトフ派の「メンシェヴィキ」という、対立する2つの派閥に分裂していた[63]。スターリンはグルジアで活動する多くのメンシェビキ党員を忌み嫌い、自らはボリシェヴィキの側についた[64]。その後、スターリンは鉱山の街チアトゥラにボリシェヴィキの拠点を確立したが[65][注釈 4]、グルジアの革命運動においてはメンシェヴィキが圧倒的な多数派であり、ボリシェヴィキは少数派の勢力であり続けた[66]。, 1905年1月22日、首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件が発生したとき、スターリンはロシア帝国領アゼルバイジャンのバクーにいた。事件に端を発する動乱はすぐにロシア帝国全土に広がり、1905年革命(ロシア第一革命)として知られる革命へとつながった[68]。1905年2月、スターリンが滞在するバクーでもアゼルバイジャン人とアルメニア人の間で衝突が起こり、最低でも2000人が死亡する民族紛争(英語版)が勃発した[69]。紛争の最中、スターリンは配下の者を武装させてボリシェヴィキの戦闘部隊を組織し、バクー市内で両民族が衝突するのを防ぐように命じ[70]、その一方で動乱に乗じて街から印刷機材の強奪を行わせた[70]。その後グルジア全域に動乱が拡大するとスターリンはさらに多くの戦闘部隊を組織したが、それはメンシェヴィキも同様だった[71]。スターリン配下の部隊は各地の警察や軍隊を武装解除させ[72]、帝国政府の兵器庫を襲撃し[73]、またコサック軍や黒百人組に対しても戦闘を仕掛け[74]、時にはメンシェヴィキ系の民兵と共闘することもあった[75]。活動資金を調達するため、スターリンの部隊は各地の商店や鉱山からみかじめ料をゆすり取っていた[76]。この年、スターリンはトビリシにて自身と同じくグルジア出身で、仕立て屋の娘だったエカテリーナ・スワニーゼ(英語版)と出会う。, 1905年11月、スターリンはグルジア・ボリシェヴィキの代表団の1人に選出され、サンクトペテルブルクで開催されるボリシェヴィキ協議会に出席することになった[68]。サンクトペテルブルクに到着したスターリンは、レーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤから開催地がフィンランド大公国のタンペレに移動したことを告げられ[77]、この1905年のタンペレ協議会(英語版)において、スターリンは初めてレーニンと出会った[78]。スターリンはレーニンの人格と知性に感動したが、レーニンの言説に反駁することを恐れなかった[18]。スターリンはドゥーマが最近作った選挙に参加するというレーニンの提案に反対し、スターリンはレーニンに認められた。スターリンはこの協議で、将来の指揮官エメリアン・ヤロスラフスキー (en:Emelian Yaroslavsky) や、ソロモン・ロゾフスキー(後に外務人民委員代理を歴任)と出会った。スターリンはレーニン達との協議後、ツァーリに反抗的な地域をコサック軍が再び抑えようとしているグルジアへ戻り、トビリシにおいてスターリンとメンシェヴィキ党員は将軍のフョードル・グリーアザノフ (Fyodor Griiazanov) の暗殺を目論み、1906年3月1日に実行に移した。スターリンは金品強要、銀行強盗、資金強奪などの行為を通して、ボリシェヴィキのために金を集め続けた。1906年4月、スターリンはロシア社会民主労働党第4回大会に出席し、この大会で将来の国防人民委員および最初の元帥となるクリメント・ヴォロシーロフ、チェーカーを設立するフェリックス・ジェルジンスキー、そしてレーニンの死後に権力を共有するグリゴリー・ジノヴィエフと出会う。また同時期にボリシェヴィキの協議で、「銀行強盗禁止」が賛成多数で可決され、この決議は資金集めの手段として銀行襲撃を行っていたスターリンを動揺させた[18]。, 1906年7月、スターリンはエカテリーナ・スワニーゼ(英語版)と結婚し、グルジアのセナキで教会式を挙げた[79]。1907年3月、スワニーゼは長男のヤーコフを出産した[80]。歴史学者ロバート・サーヴィスによれば、スターリンはこの年までに「グルジアの有力ボリシェヴィキ」として頭角を現していた[81]。スターリンは1907年5月から6月にかけ、ロンドンで開かれた第5回ロシア社会民主労働党大会(英語版)に出席した[82][83]。この大会では、レーニン派のボリシェヴィキのヘゲモニー強化と、ロシアでの共産主義革命のための戦略について討議した。スターリンは当地でレフ・トロツキーと初めて出会い、スターリンはすぐにトロツキーを嫌うようになり、トロツキーを「美男子だが役に立たない」と評した[18]。, 党大会の後、スターリンはトビリシに戻り大規模な強盗計画(1907年チフリス銀行強盗事件)を準備した。1907年6月26日、スターリンの一味は武装した現金輸送隊をエレヴァン広場で待ち伏せし、発砲と手製爆弾による襲撃を行った。警備側の死者はおよそ40人で、一味は25万ルーブル(今日の価格でおよそ340万ドル)を持って広場からの逃走に成功する[18]。スターリンは計画全般を指揮していたが、実行には参加していない。この銀行強盗の後、スターリンは妻子を連れてバクーに移り住んだ[84]。銀行強盗を禁止していたメンシェヴィキは憤慨し、容疑者を調査させ、事件は以後スターリンに難儀をもたらすが、党からの追放は免れた。国立銀行からの強奪を成功させたことがスターリンがレーニンからの信頼を得る契機となったと評する見方もある[85]。同年8月、スターリンはドイツのシュトゥットガルトで開催された第二インターナショナル第7回大会に参加した[86]。, 1907年11月22日、チフスに罹患していた妻エカテリーナが病死し[87]、エカテリーナの死はスターリンに深い悲しみを与えた。スターリンは友人に「人間に対する私の最後の温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語っている[18]。妻の死後、スターリンは息子ヤーコフをトビリシに居る彼女の親族に預け[88]、革命活動を再開したスターリンはより多くのストライキと社会運動(扇動)を組織した。ムスリムのアゼルバイジャン人と、バクーに住むイラン人 (en:Iranian peoples) の労働者を重点的に取り扱い、スターリンはイスラム社会民主党と呼ばれるムスリムのボリシェヴィキグループの設立を手伝った。さらに人的資源と兵器によるイラン立憲革命を支持し、ペルシアを訪問した際にはパルチザンを組織している。スターリンはバクーで配下のギャングを再結成し[89]、黒百人組への攻撃を再開したほか、資金を集めるために強盗、みかじめ料の要求、通貨の偽造などを行い[90]、時には身代金目当てに富豪の子供の誘拐も行った[91]。1908年初頭、スターリンはレーニンとゲオルギー・プレハーノフに会うためスイスのジェネーヴを訪れたが、当地でプレハーノフはスターリンを憤慨させた[92]。, 1908年3月、スターリンは逮捕された後、バクーのバイロフ監獄(Bailov Prison)に収監され[93]、最終的にヴォログダ州ソリヴィチェゴドスク村での2年間の流刑を宣告され、1909年2月に流刑地に到着した[94]。6月、スターリンは女装して村から逃亡し、コトラスを経由してサンクトペテルブルクまで戻った[95]。1910年3月、スターリンは再び逮捕されソリヴィチェゴドスクに送還された[96]。この流刑中スターリンはマリア・クザーコヴァという女主人と不倫し、隠し子のコンスタンティン・クザコフを儲けた[97]。1911年6月、スターリンはヴォログダの街に移動することを許可され当地で2カ月間を過ごした[98]。その後、スターリンは再びサンクトペテルブルクまで逃亡したが[99]、1911年9月には逮捕され、ヴォログダでの3年間の流刑を宣告された[100]。, スターリンが流刑中の1912年1月、プラハ協議会(英語版)にて最初のボリシェヴィキ中央委員会のメンバーが選出された[101]。しかし、党員に扮したオフラーナのスパイであるロマン・マリノフスキーの密告により、中央委員に選ばれた党員の多くがロシアへの帰還時に逮捕された。空白状態を埋めるため、レーニンとジノヴィエフはスターリンを新たな中央委員として選び[102]、スターリンは流刑地のヴォログダでこの決定を了解し、その後生涯にわたって党中央委員会のメンバーであり続けた[103]。, 1912年2月、スターリンは再度サンクトペテルブルクへ逃亡し[104]、当地で旧来のボリシェヴィキ機関紙である週刊の『ズヴェズダ(英語版)』を、日刊の『プラウダ』として刷新する任務を遂行した[105]。『プラウダ』の創刊号は1912年4月に発刊されたが[106]、スターリンがその編者であることは秘密にされていた[106]。1912年5月、再び逮捕されたスターリンはシベリアでの3年間の流刑を言い渡され[107]、7月には流刑地であるシベリアの村ナルイム(英語版)に到着し[108]、ナルイムでは同じくボリシェヴィキのヤーコフ・スヴェルドロフと相部屋になった[109]。2カ月後、2人はサンクトペテルブルクへと逃亡し[110]、スターリンは『プラウダ』の編集・執筆作業を再開した[111]。, メンシェヴィキとボリシェヴィキから各6人が選出された1912年10月の議会選挙の後、スターリンは両党派の和解を主張する記事を執筆したが、そのことでレーニンからの批判を受けた[112]。1912年後半、スターリンはレーニンに会うためオーストリア=ハンガリー帝国領のクラクフを2度訪問し[113]、最終的にはメンシェヴィキとの融和に反対するレーニンの立場に同調し[114]、その後レーニンと裕福なボリシェヴィキ支持者の夫婦とともに数週間を過ごした。また、この間に将来のソ連政府の有力な政治家となるニコライ・ブハーリンと初めて出会う。1913年1月、スターリンは首都ウィーンに移動し[115]、当地でボリシェヴィキがロシア帝国内の民族的マイノリティにいかに対処すべきかという「民族問題」についての研究を進めた[116]。スターリンは、レーニンからこの問題に関する論文を執筆するよう激励されていた[117]。, 完成した論文は『マルクス主義と民族問題(英語版)』と題され[118]、ボリシェヴィキの月刊誌Prosveshcheniye(啓蒙)の1913年3月–5月号で初めて発表され[119]、その内容はレーニンを非常に満足させた[120]。ヨシフ・ジュガジヴィリはこの論文を「K.スターリン」という筆名の下で発表した[120][注釈 5]。「スターリン (Stalin)」はロシア語で「鋼鉄」を意味する語「stal」に由来するものであり[122]、「鋼鉄の人 (Man of Steel)」とも訳される[123]。ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフの筆名「レーニン」を模倣した名である可能性も指摘されている[124]。彼はその後「スターリン」の名を生涯使い続けたが、歴史家サイモン・モンテフィオーリは、党内で名声を得るきっかけとなった論文がこの筆名の下で発表されたことがその理由であるとしている[125]。, 1913年2月、サンクトペテルブルクに戻っていたスターリンはまたも逮捕され[126]、今回は脱走が極めて困難なシベリアの奥地トゥルハンスク(英語版)州での4年間の流刑を宣告された[127]。1913年夏に流刑地のコスティノ (Kosutino) という村落に到着したが[128]、翌1914年3月には脱走を警戒した当局によって北極圏の端にある村落のクレイカ(ロシア語版)へと移送された[129]。クレイカでスターリンは原住民のツングース族やオスチャーク族と親密な関係を築き[130]、多くの時間を釣りをして過ごした[131]。一方で、同地ではリーディア・ペレプルイギナ (Lidia Pereprygina) という当時13歳(帝政ロシアの性的同意年齢を1歳下回っていた)の少女と関係を持ち[132]、彼女は1914年12月頃にスターリンの子を出産したが、この子供は生後間もなく死亡した[133]。1917年4月頃、ペレプルイギナはスターリンの2人目の子を産み、「アレクサンドル」と名付けた[134]。, スターリンが流刑地にいた間に第一次世界大戦が勃発し、ロシア帝国は戦時下に入った。1916年10月、スターリンは他の流刑中のボリシェヴィキと共にロシア帝国軍に召集され[135]、1917年2月にはクラスノヤルスクに赴いたが[136]、身体検査官によって腕の障害が認められたスターリンは兵役には不適格と判断された[137]。その後はクラスノヤルスクに近いアチンスクにて残り4カ月間の流刑に服すことを許可され[138]、首都ペトログラードで二月革命が勃発して帝政が崩壊した際もアチンスクに滞在していた。スターリンは3月に列車でペトログラードに帰還し[139]、帰還後は当地の『プラウダ』編集局をレフ・カーメネフと共同で引き継いだ[140]。さらには多大な権力を持つペトログラード・ソビエト(英語版)の執行委員会におけるボリシェヴィキの代表者に任命され[141]、4月に行われた党中央委員会選挙ではレーニン、ジノヴィエフに次ぐ3番目に高い得票数で再選されるなど[142]、スターリンは当時の党内で高い地位を確立していた[143]。, その後、スターリンはボリシェヴィキ支持者による武装デモ(七月蜂起)の計画実行に携わったが[144]、臨時政府はこのデモを鎮圧した後にボリシェヴィキへの弾圧を開始し、『プラウダ』の事務所を急襲した[145]。 襲撃の最中、スターリンはレーニンを事務所から逃し、その後はペトログラード市内の複数の隠れ家を転々とさせてその安全を確保し、最終的にはラズリーフ(英語版)に脱出させた[146]。レーニン不在の間、スターリンは『プラウダ』の編集を続ける一方でレーニンの代理としてボリシェヴィキを指導する役割を果たし、密かに開催された第6回党大会も監督した[147]。この第6回大会で、スターリンは編集長および憲法制定議会議員に選ばれ、中央委員に再選された[18]。やがてレーニンがボリシェヴィキがクーデターを起こして臨時政府を転覆し、武力によって権力を奪取することを主張し始めると、スターリンとレフ・トロツキーはレーニンの行動計画を支持したが、カーメネフら一部の党員は反対した[148]。その後レーニンがペトログラードに帰還し、 10月10日に行われた党中央委員会の投票でクーデターの決行が過半数の支持を得て採択された[149]。反対票を投じたのは、カーメネフとジノヴィエフの2人のみだった[18]。, 1917年10月24日、警察が『プラウダ』の事務所を襲撃し、印刷機材を破壊した。スターリンは破壊された機材の一部を修復して編集業務を再開した[150]。10月25日の早朝、スターリンはボリシェヴィキによるクーデター(十月革命)の司令部であったスモーリヌイ学院(英語版)に向かい、レーニンと共に党中央委員会の会合に出席した[151]。その後ボリシェヴィキの軍勢がペトログラード市内の発電所、郵便局、国営銀行、電話交換局、数カ所の橋を占拠し[152]、ボリシェヴィキ支配下の巡洋艦「アヴローラ」が冬宮殿を砲撃すると、宮殿内の臨時政府議員は降伏し、ボリシェヴィキによって逮捕された[153]。クーデター中、スターリンに課せられた任務は第二回全ロシアソビエト大会に出席中のボリシェヴィキ代表団に事態の状況説明を行うことであり、その役割は表立ったものではなかった[154]。それを根拠として、トロツキーら敵対するボリシェヴィキは十月革命におけるスターリンの役割は些細なものであったとのちに主張したが、その見解は複数の歴史学者によって否定されている[155]。1918年3月、メンシェヴィキの指導者ユーリー・マルトフは、ボリシェヴィキが革命前に犯罪を犯したということを暴露した記事を発表し、それには、スターリンが銀行強盗を組織し、そのために党から追放されたという記事(後半は虚偽)が記載されていた。スターリンはマルトフを名誉毀損で告訴し、勝訴した。, 1917年10月26日、レーニンは新ロシア政府として組織された「人民委員会議(ソヴナルコム)」の議長への就任を宣言した[156]。スターリンは民族問題人民委員に任命された[157]。新しい任務に専念できるようにと、スターリンは『プラウダ』の編集者としての地位を解任された[102]。新政府においてスターリンは、レーニン、トロツキー、スヴェルドロフと共に非公式な「4人組」として首脳部を形成した[158]。ボリシェヴィキの本部が置かれたスモーリヌイ学院では、スターリンの執務室はレーニンの執務室の近くに設けられており[159]、約束なしでレーニンの書斎を訪れることが許されていたのはスターリンとトロツキーの2人だけだった[160]。当時のスターリンはレーニンやトロツキーのように一般的に有名ではなかったものの[161]、ボリシェヴィキの世界では重要人物に成長していた[162]。スターリンはレーニンによる警察機関「チェーカー」の設立を強力に支持し、チェーカーによって始められた赤色テロも擁護した[163]。カーメネフやブハーリンとは異なり、スターリンがチェーカーおよびテロの急激な成長と拡大について懸念を示すことはなかった[163]。, ボリシェヴィキが権力を掌握した後、右派・左派を問わずその支配に抵抗する勢力が蜂起し、ロシア内戦が勃発した[164]。内戦により減少を続ける食糧の供給を確保するため、人民委員会議は1918年5月、スターリンをロシア南部における食糧徴発の責任者としてツァリーツィンに派遣した[165]。軍司令官としての価値を示すため[166]、スターリンはツァリーツィンに到着するとすぐに現地の軍の指揮権を自らに移行させた[167]。ツァリーツィンで、スターリンは将来的に自らの軍事的・政治的支持基盤の中核となる、クリメント・ヴォロシーロフとセミョーン・ブジョーンヌイの2人との親交を深めた[168]。数的優位によって勝利を得るため、スターリンは大量の赤軍兵士を動員して反ボリシェヴィキの白軍を攻撃したが、この戦略は赤軍側に多大な犠牲を強いることとなり、レーニンにも懸念を抱かせた[169]。, 白軍との戦闘の一方で、スターリンはツァリーツィンのチェーカーに命令を出して反革命分子の嫌疑がある者を逮捕し、時には裁判なしで処刑した[170]。また、軍事・食糧収集に従事する中産階級の「専門家」を(政府からの命令に反して)粛清し、その一部を同様に処刑した[171]。スターリンによる国家的暴力とテロの使用は、ほとんどのボリシェヴィキ首脳が許容する範囲を超えていた[172]。例として、農民が食糧徴発の実施に従うことを確実にするため、スターリンはいくつかの農村を燃やすように命じた[173]。, 1919年の初期にモスクワへ戻ったスターリンは、長年の伴侶となるナジェージダ・アリルーエワと3月24日に結婚した。同じく3月の第8回党大会で、レーニンは過度の犠牲者を出すに至った戦術を用いたとして、スターリンを批判した[102]。1919年5月、スターリンはペトログラード近くの西部戦線に派遣された。赤軍兵士の大規模な逃走と離反を止めるため、スターリンは脱走兵と反逆者を集めると、彼らを公然と「裏切り者」として処刑した[102]。, ボリシェヴィキは1919年末までにロシア内戦での勝利を確定させた[174]。それに伴い、人民委員会議はその関心を国外へのプロレタリア革命の拡大に向け、この目的達成のため、1919年3月には「コミンテルン」を結成していた(コミンテルンの創立式典にはスターリンも出席した)[175]。スターリンは、欧州中のプロレタリアートが革命の寸前にあるというレーニンの考えには同意していなかったものの、単独で存在する限り、ソビエト・ロシアは無防備なままであるとは認識していた[176]。1920年2月、スターリンは労農監査人民委員部(英語版)の部長に任命された[177]。同月にはまた、カフカース戦線に異動となった[178]。, 1920年、ポーランド・ソビエト戦争が激化し、ポーランド軍はウクライナに侵攻して5月7日にキエフを占領した[179]。5月26日には、スターリンもウクライナの南西戦線に派遣された[180]。赤軍は6月10日にキエフを奪還し、速やかにポーランド軍をウクライナから駆逐してポーランドに押し返した[181]。1920年7月16日、ボリシェヴィキはこのまま戦争を継続し、ポーランド領内に侵攻することを決定した[182]。レーニンは、赤軍の侵攻によってポーランド国内のプロレタリアートが立ち上がり、赤軍と共同でユゼフ・ピウスツキの政権に反抗すると信じていた[182]。一方、スターリンはポーランドの労働者階級はナショナリズムから自国の政権を支持すると予想しており、レーニンの考えに対し警告を発した[182]。スターリンはまた、赤軍はポーランドに侵攻するには準備不足の状態であり、侵攻を強行した場合クリミアの白軍に再起のチャンスを与え、内戦が再燃する事態になりかねないと考えていた[182]。最終的にスターリンは議論に負け、レーニンの決定を受け入れた[178]。, その後、ミハイル・トゥハチェフスキーが率いる赤軍がポーランドの首都ワルシャワに向けて進撃する一方で、スターリンは南西戦線でリヴィウの攻略を指揮した。8月初旬、スターリンは配下の部隊を移動してトゥハチェフスキーのワルシャワ攻略を支援するよう再三にわたり命令されたが、リヴィウ攻略を優先するため、命令の実行を拒否した[183]。8月中旬、ポーランド軍は反攻に転じて赤軍を撃退し(ヴィスワ川の奇跡)、スターリンは政治局会議に参加するためモスクワに帰還した[184]。モスクワに戻った後レーニンとトロツキーから戦争指導について批判され、自尊心を傷つけられたスターリンは、8月17日に自らを軍事的役職から解任することを要求し、9月1日に受理された[185]。, 1920年9月22日から開かれた第9回共産党協議会で、トロツキーはスターリンがポーランドとの戦争で「戦略的ミス」を犯したとの告発を行った[186]。トロツキーは、部隊の移動命令を拒否することでスターリンは戦争をサボタージュしたと主張し、レーニンもそれに同調したほか、大会期間中、スターリンの行動を擁護する者は皆無だった[187]。スターリンは屈辱を与えられたと考え、トロツキーへの敵愾心を強めた[188]。ポーランド・ソビエト戦争は、1921年3月18日、ボリシェヴィキがポーランドと講和条約(リガ平和条約)を結んだことにより正式に終戦を迎えた[189]。, 1921年2月、近隣諸国に支配を拡大することを望んだソビエト政府は、メンシェヴィキの支配地域であるグルジア民主共和国に侵攻した[190]。同年4月、スターリンはトルキスタンに赤軍を派遣し、ロシアによる同地域の支配を再確認させた[191]。民族問題人民委員として、スターリンは各々の国民と民族集団が自己表現の権利を有するべきであると考えており[192]、そのためにはロシア国家内に地域的問題の管轄を許可された「自治共和国」を設けることが助けになると信じていた[193]。スターリンの生まれ故郷であるカフカースは、多民族が混在する事情から特有の問題をはらんでいた[194]。スターリンは、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンに各々の3つの自治共和国を設けるという構想に反対しており(それぞれの自治共和国内の民族的マイノリティが虐げられる可能性が高いと考えていた)、代わりに「ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国」という連邦国家の樹立を要求した[195]。しかし、グルジア共産党は連邦国家の構想に反抗し、「グルジア問題」が引き起こされた[196]。, 1921年の半ば、スターリンは南カフカースを訪問し、グルジア内の民族的マイノリティ(アブハジア人、オセチア人、アジャリア人)を排除するような排外的グルジア愛国主義を避けるよう、グルジア共産党員に要求した[197]。この訪問の際、スターリンは長男ヤーコフに会い、彼をモスクワに連れて帰った[198]。それに先立つ1921年3月には、妻ナジェージダがスターリンにとっての次男ワシーリーを出産していた[198]。, 内戦の終結後、ロシア全土で政府による食糧徴収への反発を主な動機とする労働者のストライキや農民の一揆が勃発し、その対策としてレーニンは市場経済を容認した改革である「新経済政策(ネップ)」を施行した[199]。この当時、共産党内部でも内紛が生じ、労働組合の廃止を求めるトロツキーの党派にレーニンが反対したことを受け、スターリンが反トロツキーの党派を組織した[200]。1922年の第11回党大会において、レーニンはスターリンを党書記長に任命した。この任命にあたり、すでに他の役職に就いているスターリンの作業負荷を過度に増加させ、また権力を必要以上に拡大させるとの懸念が示されたが、それでも彼が書記長に指名された[201]。歴史学者ロバート・サーヴィスによれば、主な同盟者の1人であるスターリンを重要な地位に就けることは、レーニンにとって好都合であった[202]。, 1922年5月、レーニンは脳卒中の発作を起こし、半身不随となった[203]。その後レーニンはゴールキの別荘(ダーチャ)で静養生活に入り、人民委員会議とのつながりは頻繁に面会に訪れるスターリンを通してのものとなった[204]。スターリンは、レーニンから2度にわたって自殺用の毒薬を入手するよう要求されたが、その願いを聞き入れることはなかった[205]。この時期のレーニンは、スターリンの態度を「アジア的」であるとして嫌悪しており、妹のマリヤ・イリイチナ・ウリヤノヴァ(英語版)に対しては、スターリンが「知的ではない」と漏らしていた[206]。さらに、レーニンとスターリンは対外貿易の問題をめぐって意見を対立させたほか[207]、グルジア問題をめぐっても、レーニンはグルジア単体での共和国を望むグルジア共産党中央委員会を支持しており、スターリンが推進する南カフカースの連邦国家に反対した[208]。, 両者の意見の不一致は国家の形態にも及んだ。レーニンは、「Union of Soviet Republics of Europe and Asia(直訳:欧亜ソビエト共和国同盟)」という名の連邦国家の創設を要求し、ロシア国家は他のソビエト共和国と同列・同条件でこの新連邦に加盟するべきであると主張した[209]。スターリンは、レーニンの案では非ロシア人の独立感情が促進されると考え、非ロシア民族はロシア・ソビエト共和国内部に彼らの「自治共和国」を設けることで満足させられると主張した[210]。レーニンがスターリンを「大ロシア排外主義」として批判した一方で、スターリンはレーニンを「民族自由主義」として批判した[211]。両者の妥協の結果として、新連邦国家は「ソビエト社会主義共和国連邦(Union of Soviet Socialist Republics)」と命名されることなった[209]。1922年12月、ソビエト社会主義共和国連邦の樹立が正式に承認された[212]。, 同じ1922年12月には、レーニンの政治活動への参加をめぐり、スターリンが電話でレーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤを「ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)と仕事の話はするな、さもないと党統制委員会に引っ張り出すぞ」と激しく叱責するという事件が起きた[213]。レーニンはこのことでスターリンに激怒し、翌1923年3月5日に「私は自分へなされた仕打ちを忘れるつもりはない…発言を取り消すなり謝罪する用意があるか、それとも我々の関係を断ち切るかよく考えよ」と詰問する手紙を送った。それに対しスターリンは、クルプスカヤへの発言の真意はあくまでも医師たちの指示を守ってもらうためであって乱暴だとは思っていなかったと釈明し、「あなたが我々の『関係』を保持するために私の発言を撤回せよと言われるなら、そういたします。しかし、問題は何なのか、私の落ち度がどこにあるのか、人々が私に何を欲しているのかは推量したくありません」という『ずいぶん礼節を欠いた』[214] 返事をしたためた。, 1923年3月6日、スターリンの返信を受け取る前に、レーニンは3度目の脳卒中発作を起こして廃人同然の状態となり、大きく回復することのないまま翌年の1月21日に死去した。1924年5月22日の第13回党大会にて、クルプスカヤの希望によりレーニンの遺書(英語版、ロシア語版)が公開された[注釈 6]。遺書の内容は、「スターリンはあまりに粗暴過ぎる。この欠点は、われわれ共産主義者の仲間うちやその交際の中では我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢ならないものとなる」「背信的なスターリンを指導者にしてはならない」というものであった。レーニンはスターリンを書記長の地位から外し、「より忍耐強く、より丁重で、より思いやりがあり、あまり気まぐれではない人物」を、そのポストに任命するよう提案していた[215]。, スターリンは党書記長としての人事権を利用し、自らに忠実な部下を党と政府の要職に配置したほか[216]、大学教育を受けた者が多い古参党員よりも労働者・農民出身の新規党員を重用することで[217]、自らの支持者が国家全域に偏在することを確実にした[218]。同時に、秘密警察(チェーカー及び後身の国家政治保安部)の重鎮であるフェリックス・ジェルジンスキー、ゲンリフ・ヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーの3人と親交を深めた[219]。, 1924年1月にレーニンが死去すると[220]、スターリンは葬儀の取り仕切りを任され、葬儀当日にはレーニンの棺を担いだ[221]。未亡人となったクルプスカヤの意向に反し、共産党政治局はレーニンの遺体に防腐処理を施した上で、モスクワ・赤の広場内の霊廟に設置した[221]。霊廟は死後増大したレーニンに対する個人崇拝の一部であり、同年にはペトログラードがレーニンを称え「レニングラード」と改名された[222]。レーニン亡き後の後継者候補にはスターリンの他、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、トムスキーなどが浮上したが[223]、スターリンが権力独占への主な障害とみなしたのはトロツキーであり[224]、レーニンの存命時からジノヴィエフ、カーメネフと組んで反トロツキーの同盟を結成していた[225]。, 1924年5月の第13回党大会(英語版、ロシア語版)において、「レーニンの遺書」が地方代表団の団長に対してのみ読み上げられた[226]。スターリンは(自分を批判する)遺書の内容を恥じ、党書記長を辞任すると自ら申し出た[227]。この遜った行動により、スターリンは解任の危機を脱し、書記長に留任することを許された[227]。ジノヴィエフは増加するスターリンの権力に懸念を抱いていたが、第13回党大会では「左翼反対派(英語版)」を率いるトロツキーに対抗するため、スターリンの味方に付いた[228]。, トロツキーの左翼反対派はネップ(新経済政策)が資本主義への行き過ぎた譲歩であると考えており、ネップ支持派のスターリンを「右翼」とみなした[229]。スターリンは党中央委員会を自らの支持者で固める一方で[230]、左翼反対派の党員を徐々に要職から排除していった[231]、これらの動きは(スターリンと同じく)左翼反対派の提案がソビエト連邦を不安定にすると考えていたニコライ・ブハーリンによって支持されていた[232]。ブハーリンは第13回党大会で共産党政治局に昇進し、スターリンと同盟関係を結んだ。, スターリンは1924年終盤からカーメネフとジノヴィエフへの攻撃を開始し、彼ら2人の支持者を重要な地位から外していった[233]。1925年に入ると2人はスターリンとブハーリンに対して公然と敵対するようになり[234]、同年12月の第14回党大会では政治局の多数派であるスターリンの党派に攻撃を仕掛けたが、その試みは失敗に終わった[235]。スターリンは逆に、カーメネフとジノヴィエフによる分派主義的な行動が党の安定性を危険に晒していると批判した[235]。1926年の半ば、カーメネフとジノヴィエフはトロツキー支持派と組んで「合同反対派(英語版)」を結成し、スターリンに対抗した[236]。この時期、スターリンは革命を世界に広げることよりもボリシェヴィキがすでに支配した国での共産主義の構築に集中すべきだと主張し始めた。これは党内の多くの同志たちや、スターリンのイデオロギーに反対していたトロツキー、カーメネフ、そしてジノヴィエフをも引き込んだ。, スターリンは自身の政敵の評判を徐々に下げていった。トロツキーは革命前からボリシェヴィキにはいなかったことや、カーメネフとジノヴィエフが革命に反対票を投じていたことを指摘した。トロツキー、カーメネフ、そしてジノヴィエフは党内でますます孤立を深め、1927年11月には共産党中央委員会から追放された。11月14日、トロツキーとジノヴィエフは党からも追放され、続いて12月にはカーメネフも追放されるに至った[102]。カーメネフとジノヴィエフは謝罪の公開書簡を書き、約6カ月後に復党となったが、トロツキーはソ連からも追放された。, スターリンは、より迅速な工業化と、レーニンによる新経済政策(ネップ)を嫌った多くの党員に共感を呼んだ経済の集中管理の促進を始めた。1927年末の穀物供給の危機的な不足は、スターリンに農業集団化の推進を促進させた。1928年1月、スターリンは、富農が秘蔵していた穀物の没収を監督したシベリアへ、個人的な旅に出掛けた。党員の多くは没収を支持したが、ブハーリンと首相のアレクセイ・ルイコフは憤慨した[102][237]。ブハーリンは、富農の財産の融資による迅速な工業化というスターリンの計画を批判し、ネップへの復帰を提唱した。スターリンはブハーリンを派閥主義的で資本主義的傾向であるとして非難し、その他の中央政治局の委員たちはスターリンに味方した。1929年11月、ブハーリンは政治局から追放された。, スターリンは、「貧民階級の味方」という聴衆への訴えによって人気を得た。スターリンは従来のボリシェヴィキの理論である「世界革命」路線を放棄して、一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を提唱した。ロシア人は世界大戦と内戦で疲れており、「一国社会主義構築への専念」は、戦争に対する楽観的な解毒役となった。自身の反対勢力ができあがるため、スターリンは党内の一派が党の指導者の方針に公然と反対することができない派閥主義の禁止を大きく利用した。1928年(五カ年計画の最初の年)まで、スターリンの指導者の地位は最上位にあった。この翌年、世界革命・永続革命を提唱していたトロツキーはスターリンに反対していたために追放された。ブハーリンによる党内右派のような反対勢力の裏をかき、コルホーズと工業化を主張・推進したスターリンは、党と国の両方を統制した。しかしながら、セルゲイ・キーロフのようなほかの指導者の人気が示したように、彼は1936年から1938年の間に行った「大粛清」まで、絶対的な権力を掌握することはできなかった。, スターリン政権は強制的に集団農場に移行した。大規模に機械化された農場から農業による生産高を増やし、農民たちをより政治的支配下に置き、より効率的に徴税するためであった。集産化は、1861年の農奴制の廃止以来見られなかった、土地と農産物の制御からの疎外という急激な社会的変革を起こした。農業集団化の最初の年には、工業生産高が200%、農業生産高は50%増加するだろうと見積もられていた[238] が、達成されることはなかった。, ソ連時代のロシアは、アメリカから毎年大量の穀物を輸入していた。ロシア革命後のソ連は、「社会主義の優越性」(社会主義が何如に優れているか)を具現化させるため、工業化を重視した経済政策を推進するようになる。工業を重視したがために農作物の値段は安値に抑えられ、農民たちは農産物の出し惜しみに出た。スターリンはこれの打開のため、個々の農家がそれぞれの農業をさせるのを止めさせ、農民全員を集団農場に集めて労働させ、収穫できた農作物を国に納めさせることにした。集団農場が各地に作られ、個人で持っていた農家の土地は没収されて集団農場のものとなった。集産化は、数多くの農民たちの生活水準を急激に低下させたことで、農民たちは農産物を自分たちが生きられる最低限の生産高しか作らなくなった。個人の農家が持っていた家畜までもが取り上げられたため、それならば自分で家畜を殺してしまえ、という農家が続出、ついにはソ連全土で家畜を殺して食べる催しが行われた。さらにはコルホーズの役人が殺害されるなど、農民たちは激しく抵抗した。, スターリンは、農業集団化に反対したこの予期せぬ失敗者を「クラーク(富農)」と主張し、「農業がうまくいかないのは、農村に残った資本家である。すなわち富農が原因であり、富農を撲滅すべきである」と党大会で糾弾した(しかしながら、実際に「富農」と認定された農民は全農業人口のうちのわずか4%であった)。スターリンが対象としたのは、「ネップの時代に利益を手にした農民」であり、ゲーペーウーとコムソモールによる暴力の矢面に立たされ、それらは人口の60%であった。スターリンは農民たちを無理やり分けた。「貧農」と見なされた者は集団農場の労働者にされて働かされ、「富農」「富農の助力者」、そしてのちに「元富農」と公式に定義された人々は、銃殺されるか、グラグに収容されるか、国から遠く離れた辺鄙な地域へ国外追放となった。この「富農撲滅」政策によって、富農の追放 (en:Dekulakization) が起こった年である1930年の間に20,201人の人々が処刑されたことを記録データが示している[239]。農業集団化の第2段階 - スターリンによる高名な論説「Dizzy with success」[240]、「集団農場の同志たちに答える」[241] によって1年間中断となった - は、戦術的・政治的撤退という彼の手腕の最たる例に続いて、初期の戦略の強化が施された。, 「富農」に分類された農民は、勤勉な農家であるケースが多かった。家を挙げて農業に取り組んだために、相対的に豊かな生活を送っていたが、スターリンの農業集団化政策によって彼らが弾圧されたことで農業に熱心に取り組む人間がいなくなるという皮肉な事態となった。集団農場における労働者は、政府により決められた穀物しか作れず、その生産した穀物も不当に低い価格でしか買い取って貰えなかった。このため、農民の労働意欲は低下しソ連の農産物の収穫高は大きく下がり、ソ連は豊富な穀倉地帯を所有しているにも関わらず食糧不足に陥った。「ロシアの穀倉地帯」と呼ばれたウクライナで飢饉が発生(後述)し、農民たちが次々と餓死していった。, セルゲイ・キーロフは政治局員であり、党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする[242]。実際、一部の党員は、スターリンの後継者としてキーロフに対し秘密裏に接近していた。1930年代のスターリンは、高まりつつあったキーロフの人気についてますます心配していた。1934年に開催された新しく中央委員会を決める投票で、スターリンは1108の反対票を受けた一方、キーロフはどの候補よりも少ない3の反対票を受けたのみであった[243]。この一件は、スターリンのキーロフに対する反感をますます強めたものと思われる。, 1934年12月1日、キーロフはレニングラードにおいてレオニード・ニコラエフ (en:Leonid Nikolaev) という青年によって暗殺された。ニコラエフは当時のNKVD長官ゲンリフ・ヤゴーダと関係があり、スターリンがヤゴーダを通じてニコラエフをそそのかしキーロフを暗殺させたとする説は根強い[244]。キーロフの死はボリシェヴィキをぞっとさせたが、スターリンは暗殺の知らせを聞くと、レニングラードに向かい暗殺事件の真相を究明するため、異例の現地指揮を行った。, キーロフ暗殺に対するスターリンの公式の対応は、嫌疑のかかっているスパイと反革命分子を探し出すことで安全対策を強化するというものであった。しかし実質的には、スターリンは自身の指導体制を脅かすことになる可能性のある者たちを排除していったのだった。スターリンは自身の生立ちから人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、異常なまでの権力欲と顕示欲の塊であり、その目的を達するためなら手段を全く選ばなかったのである。この過程は、それから広範に亘る追放へと変移していった。キーロフの暗殺は、1936年から1938年まで続くことになる大粛清の前兆であった。, キーロフが暗殺されると、スターリンは、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフを含めた自身の反対勢力者たちを、陰謀に巻き込むための構想を抱いた[245]。調査と裁判は拡大していった[246]。1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった[242]。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺のあとに法律を改定する[242]。この党大会で選出された党中央委員会の委員および中央委員候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺された。党大会の党員1,956人のうちの1,108人が、「人民の敵」(ロシア語враг народа, "vrag narodaヴラグ ナロ-ダ")(en:Enemy of the people) という烙印を貼られ、秘密裁判で死刑判決を受けると直ちに処刑された。スターリンは、裁判所に対して「人民の敵」と判断した者には死刑判決を下すこと、そして直ちに死刑を執行するよう命令していた。取り調べの際には「肉体的圧迫」、すなわち拷問を用いることを認め、罪を認めない者には拷問によって力ずくで「罪」を認めさせた。, スターリンは、起訴や弁護人による訴えなしによるわずか10日間の調査で刑を迅速に執行できるようにする『テロ組織とテロ行為』という新しい法案を可決した[247]。その後、モスクワ裁判として知られる複数の裁判が開かれたが、その手続きはソ連全土に亘って模倣された。反革命活動の禁止を記載した法律の第58条は、幅広くあらゆる態度・物腰に適用された[248]。根拠薄弱な口実として火事が起きただけで「破壊活動」と見なされ逮捕されるケースが存在した。もっとも、多くの場合は誰かに「人民の敵」(「人民のための党を裏切るのは、人民の敵である」)の烙印を押し付けるだけで十分であった。そして国民の迫害・虐待が始まり、死とまではいかなくとも、しばしば尋問、拷問、そして国外追放にまで及んだ。ロシア語のトロイカには、NKVDの下に置かれる3つの委員会によって裁判はすぐに単純化され、刑は24時間以内に執行される、という新たな意味が加わった[247]。, 共産党中央政治局の最高責任者の座に君臨していたスターリンは権力をほぼ絶対的なものまでに強化し、政治的反対者、自身のイデオロギーに反対する者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員たちを策略によって逮捕・追放した。スターリンは大粛清を、日和見主義者と反革命分子を追放する試みとして正当化した[249][250]。党による粛清の標的とされた者たちはNKVDトロイカによる公開裁判後に矯正労働キャンプ(グラグ)への収容あるいは処刑という、より厳しい措置が取られた[249][251][252]。, 軍事指導者たちの多くは反逆罪の判決を受け、赤軍の陸軍将校の大粛清に繋がっていく[253]。あまりにも多くの、かつて高い地位にいた革命家たちや党員への粛清はレオン・トロツキーをして「スターリン政権とレーニン政権とは『血の川』によって隔てられてしまった」と言わしめた[254]。トロツキーは「スターリンは反対者の意見にではなく、その頭蓋骨に攻撃を加える」との言葉も遺している[255]。, 1937年よりメキシコで亡命生活を送っていたトロツキーは、1940年8月、同地で登山家のスペイン人であったラモン・メルカデルにより暗殺された。メルカデルはトロツキー暗殺のために派遣された刺客と考えられている。これにより、かつての党指導者間の政敵の最後の生き残りを、スターリンは抹殺する形となった[256]。オールド・ボリシェヴィキは、スターリン、カリーニン、そしてモロトフの3人のみとなった。NKVDによる大規模な作戦 (en:Mass operations of the NKVD) は、ポーランド人、ドイツ民族、朝鮮人といった海外の様々な民族を標的とした。計350,000人(その内の144,000人がポーランド人)が逮捕され、247,157人が処刑された[237]。粛清と並行して、ソビエトの教科書とほかの宣伝材料の歴史を書き直させた。NKVDによって処刑された著名人は、初めから存在しなかったかのように教科書や写真から跡形もなく取り除かれた。革命の歴史は、徐々にレーニンとスターリンという主要の2人についての話のみに変わっていった。, 公開されたソビエトの公文書と公式のデータによれば1937年には353,074人、1938年には328,612人(歴史家はほぼ700,000人と見積もっている)[257] もの「普通の」ソビエト国民…労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金受給者、バレリーナ、乞食が処刑された[258][259]。一部の専門家は、公開されたソビエトの公文書は、数字が控えめか、不完全か、頼りにならないと考えている[260][261][262][263]。例えば、ロバート・コンクエストは大粛清で処刑された人数は681,692人ではなく、その約2.5倍であったと示している。彼は、名誉回復された犠牲者の死因と死んだ日付をKGBが偽造し、証拠隠滅したと考えている[264]。伝えられるところによれば、当時、銃殺された人々のリストを見直していたスターリンは、とくに誰かに呟くこともしなかったという[265]。, スターリンは、NKVDの諜報部隊をモンゴル人民共和国に派遣してモンゴル人によるNKVDトロイカを設立し、数万人が「日本のスパイ」として処刑されたスターリン主義者によるモンゴルの弾圧 (en:Stalinist repressions in Mongolia) を誘発させた。モンゴルの統治者ホルローギーン・チョイバルサンは、スターリンの指導に密接に従った[239]。, ただし、37年と翌38年に集中的に発生した大粛清(銃殺刑はロシア連邦国立公文書館 (GARF) による資料によれば37年と翌年の合計が約78万人、対して前年の36年は1,118人)の原因、政治的な計画性、ならびにその過程におけるスターリンの関与の程度に関しては上述の説明とは異なる異論もある。ソ連崩壊後に公開された公的資料に基づく研究によれば、ノーメンクラトゥーラならびにモスクワが当時強引に進めていた農業集団化などの国家統制政策とそのもたらした混乱が一方にあり、他方でボリシェヴィキの伝統的な主意主義(「鉄の規律を誇る党」)的体質という「二つのモデルの混在」とそれに起因する矛盾が、社会全体を巻き込んだ政治的なヒステリー現象たる大粛清の社会構造的な原因であるとされている[266]。, 主な犠牲者としては、かつてスターリンと共にトロイカ体制を築いたジノヴィエフ、カーメネフの両名に始まり、グリゴリー・ソコリニコフ、チュバール、ゲオルギー・ピャタコフ、ニコライ・ブハーリン、ボロージン、アレクセイ・ルイコフ、カール・ラデック、ミハイル・トゥハチェフスキー、スタニスラフ・コシオール、レフ・カラハン、イオナ・ヤキール、などである。アドリフ・ヨッフェ、ミハイル・トムスキーは自殺した。第17回大会の中央委員140人のうち、無傷で残ったのはわずか15人であった。トゥハチェフスキーを初めとする赤軍の高級将校の大部分が含まれており、将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に銃殺されたとされる。, 俳優で演出家のフセヴォロド・メイエルホリド、作家のマクシム・ゴーリキー、生物学者のニコライ・ヴァヴィロフのような、文化人や学者も犠牲となった。外国からコミンテルンに来ていた、ドイツ共産党員のヘルツ、ノイマン、ハンガリー共産党のクン・ベーラ、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員も処刑か強制収容所送りとなった。日本人では、日本共産党員の山本懸蔵、演出家の杉本良吉、ドイツ共産党員でソ連に移住していた元東京帝大医学部助教授の国崎定洞が行方不明となった(いずれも逮捕・処刑されたことがのちに判明する)。, また、後述のようにこの記事に掲載されているスターリン、レーニン、カリーニンの3人が写っている写真は集合写真からの切り抜きであるが、実際の写真は1919年に行われた党中央委員選出の際に撮られたものであり、素性が分からない人物1人(後列に立っているため顔が見えない)を含めて21人が写っている写真であった。この中で氏名が判明している20名(スターリンら3人を数えなければ17名)の内11名がスターリンに粛清され、他にも3名(上記のヨッフェとトムスキーの他にミハイル・ラシェヴィチ)がスターリンに抗議して自殺している[267]。, 粛清の実行者である秘密警察職員ですら例外ではなく、ゲンリフ・ヤゴーダからニコライ・エジョフ、ラヴレンチー・ベリヤへと長官が変わるなかでNKVD職員たちも何万人と粛清された。例えばエジョフの場合、NKVDを掌握した時点で前任者であるヤゴーダやメンジンスキーの息がかかった職員を大勢粛清して組織内での自分の立場を強化している。ほどなくヤゴーダ自身も粛清されることとなるが、エジョフも最終的にはヤゴーダと同じようにベリヤに取って代わられ、粛清されている[268]。ベリヤも権力を握った時点でエジョフと同じようにNKVD内のエジョフ派幹部らを粛清しているが、ベリヤ自身もスターリン死後の権力闘争で敗れて粛清されている。当然のように、この時もNKVD内の親ベリヤ派と目されていた側近達が新体制によってベリヤと共に粛清されている。, 粛清される側になったNKVDの元トップらは、当然自分たちが今まで粛清してきた人々と同じ運命を辿ることになった。後述のように、今まで描かれていた絵画や写っていた写真から削除されたのである。ヤゴーダの場合、自分が建設した運河をスターリン、キーロフ、それにヴォローシロフらと船に乗って歓談している絵があったが、粛清後は削除され、代わりにヤゴーダのいた場所には手すりに掛けられたコートが追加された[269]。ベリヤの場合、粛清後はそれまでソビエト大百科事典に載っていたベリヤの項目が完全に削除され、すでに第2版を購入していた人々の下には「ベーリング海の新たな情報」なる4ページの記事が送付された。, 「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、1930年代の弾圧による死亡者は200万人前後とされる(同書624頁)。この数字は、フルシチョフが1962年から63年に行った秘密調査における数字、ならびにゴルバチョフが1988年に行った再調査における数字とほぼ一致する(同書626頁)。, 1936年、スターリンは新憲法、いわゆる「スターリン憲法」を制定した。これは、プロレタリアート独裁に基づき、「労働者の代表であるソビエトに全ての権力を帰属させ、生産手段の私有を撤廃し、各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」という社会主義の原則に立つもので、「ソ連邦における労働」とは、すなわち「“働かざる者、食うべからず”」の原則の下、働きうるすべてのソヴィエト市民の誇りある義務であり、また努めである」とさせた[270]。そして、「労働者の利益に従って」という条件の下、満18歳以上の国民すべてに選挙権が与えられ、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用し、民族の平等権など、人民民主主義の理念が提唱されたもので、社会主義国家としては世界初だった。, だが、この憲法は国内よりも対外的な宣伝を意図して作られたものであり、候補者推薦制とソ連共産党による一党独裁制は変わらず、民族の平等や宗教の自由などは、実際にはまるで守られることはなかった。もっとも当時それ自体は珍しいことではないが、ソ連の場合、最初の選挙で議員の一人に19歳の少女が選ばれるなどエンターテイメント的な宣伝が行われ、有権者の千人に一人は候補者名を塗り潰し反ソ・反選挙的態度を見せるなどの国内の反感も受けていた(封筒に入れない、別の候補者名を書くなどの無効票を加えればもう少し増える)。, なお、スターリン憲法はスターリンの死後に一部が改正され、1977年にレオニード・ブレジネフによって新しい憲法が採択されたが、内容はこのスターリン憲法が基礎となっている。のちにミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカによって、1988年12月および1990年3月に改正された。後者の改正では大統領制・複数政党制が導入され、一党独裁制は放棄された。最終的に、1991年のソ連崩壊により、憲法は失効するに至った。, スターリンは、秘密警察と情報機関の適用範囲と権力を大きく増大させた。彼の指導の下、ソ連の諜報部隊は、ドイツ(赤いオーケストラ)、イギリス、フランス、日本、そしてアメリカを含む世界の主要な国の大部分に諜報の網を構築し始めた。スターリンは、偵察、共産主義の政治的プロパガンダ、そして国が許可した暴力との違いが分からなかった。スターリンはこれらをNKVDによる仕事として統合し始めた。海外の共産党のソ連支持、スターリン支持の状態にするために諜報員を潜入させるコミンテルンの活用は大きな成果を上げた。秘密警察と海外での諜報活動を統合させたスターリンの手腕の最たる例の一つは、メキシコに亡命したトロツキーの暗殺の許可を秘密警察に与えたことである[271]。, 1939年9月のポーランド侵攻後、分割占領線となるカーゾン線東部のポーランド人数十万人を中央アジアなどの辺境地へと強制移住させた。

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