Nach eigner Anschauung und authentischen Quellen. Eine Didt-Erleichterungs-Predigt von Aujust Buddelmeier, Dages-Schriftsteller mit’n jroßen Bart. On principe de la loi universelle, théorie et pratique de l’économie sociale et liquidation du vieux monde.Lille, Wilmot-Courtecuisse, 1867. xiii, 306 p. Bebel, August: Die Frau in der Vergangenheit, Gegenwart und Zukunft. Chandos, The Marquis of Jena u. Leipzig, L. E. Gabler, 1797. In which are particularly considered population, agriculture, trade, industry, money, coin, interest, circulation, banks, exchange, public credit, and taxes. 360 p. [Le] dossier de Ia guerre de 1870.  研究所は創立と同時に《日本労働年鑑》の編集作業に着手し、〈我国に於ける労働問題其他の社会問題の実際に就いて、其の諸方面に於ける発現の状況を観察し、其の材料を一年毎に編輯し、事実の記録として止め置く〉(第1集緒言)ことを目的に1920年5月、刊行を開始した.第1集の収録対象となった1919年は、あの米騒動の翌年で、日本の労働組合運動が本格的な発展を始めた年であった.その後70年近く、戦時中の強いられた中断はあるものの、《年鑑》は今日にいたるまで研究所の中心的な事業のひとつとして継続している.空白であった戦時期については《太平洋戦争下の労働者状態》(1964年)と《太平洋戦争下の労働運動》(1965年)の2冊を年鑑特集版として刊行した.この戦時特集を含む既刊58冊は、日本の労働運動・社会運動の幼年時代から今日にいたるまでの〈公平且つ忠実〉な記録として、各方面で高い評価をうけている. Répresentant du peuple Containing the commercial transactions of the British Empire and other countries, from the earlieat accounts to the meeting of the Union Parliament in January l801; and comprehending the most valuable part of the late Mr. Anderson’s history of commerce, viz. 2. ed. Tübingen, H. Laupp, 1872. xii, 775 S. (Hasbachs Bibliothek). with additions. Fox,C.F. Hottingen-Zürich, Schweizerische Volksbuchhandlung, 1883. Janny Hinrichsen. With a preliminary discourse, containing an analysis of Plato’s Republic &c.; and copious notes, by J. ), ________ : Procès du journal républicain le patriote de la Côte-d’or, et de l’Association Dijonnaise contre les impots anti-populaires sur les boissons et sur le sel, acquittés à l’unanimité par la cour d’assises de Dijon. Paris, Agasse, 1795. viii, 389 p. Coningham, William: The self-organized co-operative associations in Paris & the French Republic. 15 p. ________ : Lettre du citoyen Cabet à l’archevêque de Paris, en résponse à son mandement du 8 juin 1851. To Nutz un Liehr för den Broder Buurn. Prior, Matthew: see, A select collection. By William Hodgson, now confined in the prison of Newgate, London, for sedition. London. Instituts, der königl. Tom.I.,IV.-VI., IX.-XIII, XV.-XXIII, XXVI-XXXV., XXXVII.-XXXIX. Aufl. Tl. ), _______ : Théorie de l’impot. : 1816. lxxxii, 504 S. 2. [Ex Ex Ex No. Paris, E. Dentu, 1863. xviii, 324 p. _______ : Les évangiles. 2.本年表の第2の特色は、項目末尾に出典番号を付し、各項目をどのような文献によって作成したかを示した点にある.その意味で出典は、各項目の事実としての正確度を確かめる手だてである. Mirabeau, V. R. I: Paris, R. Ainé, 1826. xxii, 411 p. Tom.  フランス=仏 Philippoteaux 34 p. (In; Gehenna). III. Eine Skizze. Dargestellt von einem Handarbeiter. Bürgerwehrmänner aus dem 9. Neuer Social-Demokrat. Zu haben bei S. Löwenherz. Druck von Marquardt u. Steinthal. By Sir William Petty, late fellow of the Royal Society. Wayland, Francis: The elements of political economy. Es ist ein Ostreichischer Pole. [The] Leveller: or, the principles & maxims concerning government and religion, which are asserted by those that are commonly called, levellers. 2 vols. Revolution in Sachsen! Historisches Gemälde der despotischen Willkürherrschaft Heinrich VIII. Bucher, L.  (4) 森戸辰男(所員)  原稿「ピーター・クロポトキンの死」がある。『経済学研究』に「クロポトキンの社会思想の研究」を発表して「森戸事件」を引き起こした本人のクロポトキン論の原稿である。 398 S. (With signature: Edmund van Hager. ), _______ : Die Theorie der erworbenen Rechte und der Collision der Gesetze unter besonderer Berücksichtigung des römischen, französischen und preußischen Rechts. 調査したのは、東京大大学院医学系研究生の中田ゆりさんと、産業医科大(北九州市)の大和浩・助教授。中田さんらは10月に数日間、東京―新神戸で、たばこの浮遊粉じん濃度をデジタル粉じん計で1分ご … 23 p. ( In; The real character and tendency of the proposed reform. London, J. Watson, n.d. 16 p. _______ : A letter to the Hon. Professor der Staatswissenschaften an der Universität Bern.  なお、上記執筆者の他に、是技英子、高島道枝、中尾美知子、吉沢南、山本恵子の諸氏に編集上の助言・協力を得た., このたび、柏書房から刊行される『日本社会労働運動資料集成』は、現在、法政大学大原社会問題研究所が所蔵する膨大な協調会史料の一部である。大原社会問題研究所の復刻刊行としては、創立50周年を期して開始された『日本社会運動史料』(法政大学出版局)が、すでに世に知られている。その復刻は、現在まで実に206冊にのぼっている。この復刻シリーズは、いわば復刻というかたちでの研究所の情報公開であり、大原社会問題研究所と研究者、利用者の時間的空間的距離を縮めるものとして、きわめて有益であると考えている。, 今回の協調会史料の刊行も、目的・性格としては『日本社会運動史料』と同じである。異なるのは、復刻史料の由来である。『日本社会運動史料』は、もともと大原社会問題研究所が収集し、所蔵していた史料を中心に復刻されてきた。今回の刊行は、大原社会問題研究所とは全く別の機関であった協調会の史料の刊行である。, 協調会は、大原社会問題研究所が創立されたのと同じ年、1919(大正8)年に、政府・財界が出資し、労使協調を目的として設立された民間機関である。その事業内容としては、(1)社会政策・内外社会運動の調査・研究とその発表、(2)社会政策・社会立法に関する政府の諮問に応じ、意見を提出、(3)学校・講習会・講演会・図書館などの設置、開催、(4)労働者の教育、福利増進施設の設置、(5)労働争議の仲裁・和解などを行い、もって協調的労使関係の普及に力を入れた。, そうした活動のうち、社会・労働関係の調査・研究は、たとえば、月刊『社会政策時報』、『労働年鑑』、『最近の社会運動』、各種の調査報告などとして刊行された。だが、協調会のそうした成果の基礎には、社会・労働運動の実態動向把握という活動があった。とりわけ、協調会労働課・情報課を中心とした労働組合、労働争議、無産政党、社会運動の実態把握のための調査、資料収集および内務省・警察から提供される情報・連絡の記録類が加えられ、年鑑や調査報告の記述の基礎になった。それらが、膨大な資料として蓄積されたのである。, 今回、刊行される『日本社会労働運動資料集成』は、そうした協調会史料である。大原社会問題研究所の協調会史料の公開計画のなかで、協調会研究会(高橋彦博・梅田俊英・横関至)が発足し、編集作業が行われた。編集にあたっては協調会保管史料全113リールに加え、冒頭のリールに、協調会の歴史、組織が分かる協調会自体の資料を収録した。この協調会史料が、社会的に有用なものとしてぜひ活用されることを願っている。最後になったが、この編集および刊行の過程で、柏書房、とりわけ出版部長の佐保勲氏、出版部の山崎孝泰氏には、ひとかたならぬお世話になった。記して謝意を表明したい。, 膨大な協調会史料の核心部分を構成しているのが、協調会本部の労働課と情報課の保管にかかわる数百冊の資料ファイルである。それは、大型書棚数列に整然と並べて保管されていた内部資料であったことが、分類・整理された諸資料の製本状況からうかがえる。 To which is added, a plan of the buildings proposed, with proper elevations. III: Paris, Rapilly, 1828. vii, 472 p. Tom. 70 p. (With signature: Geo. To Docteur Laon (Herausjejeben von Aujust Buddelmeyer, Dages-Schriftsteller mit’n jroßen Bart.) Fest-Gedicht zum demokratischen Ball des Bezirks 48b. 208 p. 5.  第5に、この年表には、これまで例のない企てがある.それは、毎年、この年表と同じ形式の増補が作成され、《日本労働年鑑》に収録されることである.これまでのものは、いかにすぐれた年表であっても、完成と同時に古くなりはじめるのを避けることは出来なかった.この年表は、《日本労働年鑑》への追録によって、いつまでも古くならず、成長する年表となることを期している. London, 1649. Der Sozialismus und Communismus Frankreichs von 1830 bis 1848. Morgan, J. M. IV: Paris, Rapilly, 1829. viii, 90 p. Tom. Hennell, M. 10. ed. Wenn du nich jut vor die Zöppkens bist, denn wees ick nich wat besser is ! A table of the prices of various commodities, from 1782 to 1822, with statements of quantities; preceded by some general remarks. II: 1870, xiii, 912 S. Bd.  南アフリカ連邦、南アフリカ共和国=南ア Quinet, Edgar: Critique de la révolution. 20 p. Boyer, Adolphe: De l’état des ouvriers et de son améilioration, par l’organisation du travail. 1. Verbürgte Nachrichten von einem Augenzeugen. 2 vol. Locke, John: The works of John Locke, Esq. Nicholls, G. Landauer, G. 5. éd. London, J. Watson, 1845. London, Longmans, Green, & Co., 1867. xii, 440 p. [A] select collection of scarce and valuable tracts on money, from the originals of Vaughan, Cotton, Petty, Lowndes, Newton, Prior, Harris, and others. 16 p. (In; Owen, R. D. Popular tracts.). Dunckey, H. ), _______ : Gironde et Girondins. 『政治算術数論』1699年刊, 政治算術は、労働価値説の創始者べティのばあい、J.グラントの商業算術の発展で、経済学と統計学との未分化状態における社会科学の萌芽。本書はこの科学を用いて英・仏の国力を比較し、前者の優位を実証した小論集。A.スミスをしのぐとさえ言われる分業論も展開。18世紀後半以降、政治算術は経済学と統計学に分化した。, ジョン・グラント Bern, 18 May 1844. Hudson, T. H. Hasbach, W. Stewart, Dugald: The collected works of Dugald Stewart, Esq., F.R.S.S., honorary member of the Imperial Academy of Sciences at St. Petersburg; member of the Royal Academies of Berlin and of Naples; of the American Societies of Philadelphia and of Boston; honorary member of the Philosophical Society of Cambridge; Professor of moral philosophy in the University of Edinburgh. Odilon-Barot Berlin ist an allem Unglück schuld. 5. 2. partie. To the storekeeper of the exchange. It is these books that this catalogue chielly covers. Tl. Budget Bruxelles, Paris et Saint-Pétersbourg, C. Muquardt, J.-B. II: Paris, Pichon-Bechet, 1827 [ii,] 479 p. _______ : Die Demokratie im Frankreich. Meliora Oder: beurtheilende Darstellung der simonistischen Religion, ihres Verhältnisses zur christlichen Kirche, und der Lage des Christenthums in unserer Zeit. Dingelstedt, F.  北米職工同盟団とはアメリカ労働総同盟(AFL)のこと。名刺の裏には「労働は神聖なり。結合は勢力なり。神聖の労働に従う人にして結合の勢力をつくらんか、天下亦何者か之に衝〔あたる〕る者あらんや。吾日本の職工諸君の為すべきこと、唯夫れ結合を為すにあるのみ。組合を設くるにあるのみ」と記されています。, 房太郎は、8年もの間、サンフランシスコ、シアトル、タコマなど、主としてアメリカ西海岸の各地で外国人出稼ぎ労働者として働きました。家事の手伝い、製材所の労働者、レストランのウエイターやホテルの客引き、移民局の通訳など、さまざまな職業につきながら毎月10ドル(日本円で20円余)を送り、弟・岩三郎を東京大学で学ばせました。彼自身も、きびしい労働の合間に独学で英語や経済学を学んでいます。, 房太郎がアメリカでもっとも強い印象を受けたのは、人びとの豊かさでした。そして、労働組合運動の存在がその豊かさを支えていることを知ったのです。それを最初に教えてくれたのが労働運動の百科事典ともいうべき、ジョージ・マクニール編『労働運動:今日の問題』でした。, さらに、ジョージ・ガントンの『富と進歩』を読み、房太郎は強い感銘を受けました。この2冊の本との出会いが、高野房太郎を日本労働組合運動の創設者にしたのです。, 1989(明治22)年、サンフランシスコの北にあるポイント・アリーナという小さな町の製材所で働いていた房太郎は、「この本と出会って労働運動に対する関心が目覚め」とゴンパーズ宛の手紙で述べています。 : To Bamberger. Hannöverschem Polizel-Director, & Dr. jur. Aus den politischen Pamphlets von Karl Louis Courrier. 15 S. _______ : Was nun? Tübingen, Gottaische Buchhandlung, 1815. vi, 87 S. ________ : Die Staatslehre, oder über das Verhältniß des Urstaates zum Vernunftreiche in Vorträgen, gehalten im Sommer 1813 auf der Universität zu Berlin. : 202 S. 1 illustr. (2)番号が付いているが図書の配架位置を示してはいない。パンフは一連番号で探せる。, a 冊 数 1999年11月現在の所蔵図書冊数は,約18万冊である。そのうち和書は協調会文庫が2万3,500冊,向坂文庫が約2万冊,全部で12万8千冊,洋書は協調会文庫が約1万7,700冊,向坂文庫が約1万冊,全部で5万1千冊である。80年の歴史の割には少ないが,これは研究所が大阪から東京に移転したさいに蔵書約8万冊を大阪府に譲渡したことと,1945年5月の東京大空襲で図書の大部分が焼失したためで,戦前から残された図書は約6,000冊強にすぎない。しかし,この6,000冊の図書は貴重なものが多い。, 戦後も研究所の財政事情は苦しく図書の収集は思うに任せなかったが,労働組合や篤志の方の寄贈もあって次第に規模を拡大してきた。最近の10年間でみると2万5,936冊となっていて年平均約2,600冊に達している。, このほか現在整理中のものとして,大原慧,中林賢二郎,村田陽一,青木宗也,東城守一の各氏より寄贈された図書がある。また,このほかにも労働・社会運動団体や個人からいただいた図書・資料があるが未整理のため蔵書数には含まれていない。, b 分 類 現在使用されている分類表は1966年11月に作成されたものである。その特徴は,1)資料と図書を一つの分類表に統合していること,2)基本的な枠組みは日本十進分類表(NDC)によっているが,大原の収集の中心である労働問題にスペースをさいていることである。すなわち,NDCでは自然科学の分類番号である4を労働問題にあて,大原ではほとんど収集していない自然科学関係の図書は140から160までにおさめた。宗教関係図書は190にまとめた。資料(雑誌および新聞)に8類と9類を与えたため,文学を芸術とともに7類にまとめ,語学を09に展開した。NDCとは逆に5を産業,6を工業にあてた。3が社会科学であるのは同じであるが,構成はやや異なる。研究所の収集の一つの重点である社会思想に30をあたえ,マルクス,エンゲルスの著書とその研究は304に,レーニンは305にまとめるという特殊な方法をとっている。経済は330と340に展開し,経営を350に独立させた。さらに農業経済に360を与えるなど経済を重視した分類でもある。, 作成後すでに20年以上経過しており,また,収集も社会主義,マルクス経済学が相対的に比重が低下するなど種々の点で古くなっていることは否めない。改訂についても検討されたが,分類表の改訂は図書館にとっては大事業であり,容易ではない。, c 目 録 検索手段としては種々の目録が編纂されてきた。協調会文庫は和書が整理済であるが,洋書については資料紹介でもふれられているように現在データチェックをすすめているところである。向坂文庫についても別項目で現状の紹介がある。その他一部の未整理の文庫を除き以下の目録で検索可能となった。, 著者名と件名としての人名・団体名をあわせた人名目録は和洋混合配列でアルファベット順,書名目録は和洋別で,和書は五十音順,洋書はアルファベット順である。分類目録,件名目録も和洋混配となっている。和洋混配のねらいは同一の見出しは一ヵ所に集まるということで利用者に便利であろうと考えたためであるが,和洋の標目を統一する必要があり,特に外国の団体名では検索が困難な場合がある。また,和書の目録規則が改訂され,新版が刊行されたのに伴い,研究所も従来の和洋統一の目録規則から和書は新版,洋書は英米目録規則(AACR 2)と別々の目録規則に移行することにした。, また,協調会文庫は日本十進分類法の6版で分類されており,和書の冊子目録が刊行された。著者名,書名,分類のカード目録もある。, なおカード目録の出力・編成は1995年1月受け入れ分より中止した。それ以降のものについてはコンピュータにより検索していただくこととなる。データ化の現状については下の表を参照願いたい。, 当研究所が所蔵する文献で,ほかの図書館や研究所では容易に見られないものは,図書よりも定期(逐次)刊行物や〈資料〉の方に多く含まれている。戦前・戦後の日本の労働運動,社会運動関係の資料が中心だが,その基礎となったのは,『日本労働年鑑』編纂のために収集された資料である。『日本労働年鑑』は,研究所創立の翌年,1920年に第I集が刊行され,戦時中と戦争直後の中断はあるが,現在まで80年間,日本の労働運動を記録し続けてきた。年鑑という性格のため包括的・網羅的な資料収集が必要であり,また毎年収集を必要とするため資料は系統的なものとなっている。特に諸団体の機関紙誌は,年鑑編集のための基礎資料として比較的よく収集され,いわゆる「三号雑誌」の類いまで集まっている。, 定期刊行物や資料を収集・保存する上で重要な意味をもったのは,研究所が1923(大正12)年に図書室とは別に資料室を設けたことである。資料室主任となった後藤貞治は,その当時ではまだ紙屑としか考えられていなかった社会・労働運動関係の原資料を意識的に収集し,保存した。たとえば,1928年に第1回の普選による総選挙が行われた際には,無産政党各派を中心に選挙ポスターを収集している。新聞紙に赤インクでただ名前を書いただけのものから,柳瀬正夢が描いた大山郁夫のポスターのように良く知られたものまで大量に集められている。また,メーデーやプロレタリア演劇のポスター・チラシなども数多く残されている。資料室はまた,労働組合や農民組合,無産政党の所蔵資料を一括して購入し,その保存につとめた。どんなビラでも1枚5銭で買ったから,選挙の時など,組合本部の資料を研究所に売却して運動資金にしたこともあるという。予審調書など裁判関係の記録も,被告側が謄写費用を捻出するために資料室に持ち込まれた。もちろん,大原社研に渡しておけば貴重な記録が保存されるということで運び込まれた例も少なくない。, 資料のうち,各県の自治体史編纂など,一般にもっともよく利用されているのは,こうして集められた労働組合,農民組合,無産政党など社会運動諸団体関係の原資料類である。とくに日本労農党系のいわゆる「中間派」の労働組合・農民組合や政党のものは,本部所蔵資料をそのまま受け入れており,貴重なものである。内容は大会の議案書,本部から支部への通達,支部から本部への報告,争議ビラなど多様である。, また,他の図書館,研究所にないコレクションとして貴重なものは,財団法人協調会が争議調停などの業務上の必要から日常的に収集していた資料である。これは協調会労働課が労働組合や無産政党の全国大会に係員を派遣して速記録を作成し,あるいは内務省や各県の警察部から,労働組合や争議に関する情報が送られてきたものを製本したもので,運動の側とは違った角度から集めた情報が大量に残されている。, このほかにも,研究所独自のプロジェクトによって集められた資料,たとえば米騒動関係資料,労働組合調査資料,反社会主義団体調査の資料,月島家計調査の家計簿などはユニークな収集といえよう。, なお,近年になって利用が激増しているものに,先にあげたポスターや写真などの「画像資料」がある。さらに適当な名称がないので,所内では「現物」と呼んでいる資料にも,高野房太郎が経営した消費組合「共栄社」の看板や,印刷工組合「信友会」や全日本鉱夫総連合会の旗など珍しいものが少なくない。, 戦後は,労働運動,社会運動が戦前とは比較にならない規模に達したため,戦前のような包括的な収集は困難になった。それでも,『日本労働年鑑』編集のために,労働組合は単産レベルまで,そのほか社会主義政党など諸団体の機関紙誌や大会記録を網羅的・系統的に収集してきたし,今も続けている。, 戦前の労働組合や農民組合の本部所蔵資料に匹敵するというより,質量的にそれらを超えているのは産別会議本部旧蔵資料と日本農民組合および全日本農民組合本部旧蔵の資料である。これとは比べられないが,総評や同盟,及び連合,全労連の資料もかなりよく揃っている。また,単位組合についても,国鉄労働組合本部の所蔵資料を一括して受け入れたほか,産別時代の東芝労連,全造船三菱長崎造船所分会などの資料も戦後労働組合運動の系統的な記録として重要である。また,これまで当研究所のほかには社会運動関係の資料を受け入れる機関が少なかったこともあって,労働運動だけでなく,松川事件,メーデー事件をはじめ,レッドパージ関係,スモン訴訟など裁判関係の資料も戦後の資料ではかなりの比重を占めている。, 現在,大原研究所が所蔵している図書は,内容的に多様であるだけでなく,入手経路もさまざまである。そこで,その入手経路を説明することで,研究所の蔵書構成を説明することにしたい。, いうまでもなく,蔵書の中心は当研究所が直接収集したものである。大原社会問題研究所は1919年の創立直後から図書の収集,とりわけ外国書の収集に力をいれた。1920年から21年にかけて,大原孫三郎はドイツ,イギリスをはじめとする欧米各国に研究員を派遣し,図書や逐次(定期)刊行物の収集にあたらせた。とくにドイツでは,第一次世界大戦での敗北による混乱から大量の図書が市場に出まわっていた上に,空前のインフレによる円高・マルク安もあり,多くの貴重書や新聞・雑誌を入手することができた。なかでも,パウル・エルツバッハーから一括購入したアナーキズム関係図書は,著名な研究家が集めたものだけに世界でも有数のコレクションで,大原社研が国内で集めた日本の無政府主義関係書とあわせ,質量ともにすぐれた収集となっている。和書についても,新刊書を日常的に購入しただけでなく,関東大震災直後には,図書価格の高騰を見越して,関西地方でまとめて古書を収集している。, しかし,このようにして集めた図書のうち経済学の古典を中心とする約8万冊は,1937年に研究所が東京に移転した際,大阪府に譲渡され,さらに敗戦の年の5月の空襲による火災で,淀橋区柏木(現在は新宿区北新宿)にあった研究所の事務所と書庫が類焼し,当時の新刊書を中心とする蔵書の一部を失った。しかし,社会主義・社会思想関係の貴重書や,社会運動・労働運動関係の原資料や裁判記録など,所蔵文献中でもっとも貴重なものは,強固な土蔵に収納されていたため焼失を免れた。, 戦後は,限られた予算であるが,労働問題関係図書を中心に収集につとめた。戦前との大きな違いは,購入書より寄贈書の比重が高まったことである。「労働問題文献月録」や「労働運動史文献目録」を編集していることで,大原社研が労働関係図書の収集に当たっていることを多くの機関や個人が知ってくださり,その方々の協力で,多数の図書の寄贈を受けてきた。とくに労働組合史や社会運動家の伝記・回想記などは,非売品や私家版で一般の書店には出ないものが多く,当研究所の蔵書構成をユニークなものとしている。, 寄贈といえば,この間に大原研究所は2つの大型コレクションを受け入れ,その蔵書は質量ともに飛躍的な発展をとげた。協調会文庫と向坂文庫がそれである。, 協調会文庫は,もともとは財団法人協調会付属図書館の蔵書である。財団法人協調会は,大原研究所と同じ1919(大正8)年に,労資協調の促進を目的に政府と財界によって設立された半官半民の団体で,そうした立場から,労働問題に関する調査研究をすすめ,多くの図書・資料を集めた。戦後,協調会は占領軍によって解散させられたが,図書など,その資産は学校法人中央労働学園(中労)に帰属した。 1951年,中央労働学園の経営する中央労働学園大学の法政大学との合併にともない,その蔵書は法政大学に移管され,「協調会文庫」として大学付属図書館の管理下に入った。そのため,利用者の間から,大原社研の蔵書と協調会文庫とを一箇所で閲覧できるようにしてほしいという希望がしばしば出されていた。 1960年代末に両コレクションの主要部分の整理が終わり,さらに,たまたま大原社研の蔵書と協調会文庫とが,ともに法政大学麻布校舎に移ったのを機にこの懸案は解決した。 1973年12月に両者の協同利用機関として社会労働問題研究センターが生まれ,その管理を大原社会問題研究所が担当することになったのである。, 向坂文庫は,マルクス経済学者の向坂逸郎氏のコレクションを,1985年に,ゆき夫人から寄贈されたものである。戦前は「労農派」の論客として健筆をふるうと同時に,世界最初のマルクス・エンゲルス全集を編集し,戦後は社会主義協会代表として日本社会党の理論的指導者のひとりであった向坂逸郎氏は,愛書家としても著名で,その生涯を通して膨大な図書・資料を集めた。その分量は雑誌やパンフレット類も含め約7万点,図書だけでは和書が約2万冊,洋書が約1万冊で,おそらく一個人のコレクションとしては世界最大規模であろう。マルスク経済学に関する図書を中心に,歴史・文学など幅広い分野の図書が集まっている。「文庫」の中に,日本の社会主義運動の父ともいうべき堺利彦の旧蔵書が含まれているのも貴重である。, そのほか大原研究所は,高野岩三郎氏,大山郁夫氏,鈴木茂三郎氏をはじめとする多くの社会運動家や研究者の旧蔵書を個人文庫として受け入れている。, ミレニアム特集として、法政大学大原社会問題研究所が所蔵する歴史的ポスター資料約2700点をオンライン展示しています。戦前期日本における〈モダンの力〉をご鑑賞ください。8秒間隔のスライドショウ形式でお届けします。谷口朗子・監修。 1999年11月22日開始。2000年1月16日の段階で全画像を設定いたしました。かっこ内の数字は各小項目に用意された画像の枚数です。しばらく点検作業を続けますが、今後は少しずつ解説などを加えていきます。まずは「イントロダクション」をご覧ください。, 「法政大学大原社会問題研究所所蔵資料1400点で見る戦後日本の姿」は、研究所所蔵の戦後ポスター・ステッカー類1400点のうち、労働組合・労働運動関係の約650点を「スライド・ショウ」形式で展示しています。これらのポスター・ステッカーは、全国中央組織(ナショナルセンター)、地方組織、産業別組合・企業別組合、春闘、メーデーに分類され、さらに組織名、産業・業種、項目、年代別に分けられています。なお、戦後ポスターデータベースでは、1400点の戦後ポスター・ステッカー類全てをキーワード検索することができます。また、戦後ポスター展は、英語版(English Version)でもみることができます。, 展示されている650点には、戦後初期の労働運動に強い影響力を持った全日本産業別労働組合会議(産別会議)や日本電気産業労働組合(電産)のポスター、40年代末から50年代にかけて起こった大きな争議(1947年の2.1ゼネスト、1948年の東宝争議、1949年の東芝争議、1950年の日立争議など)のポスターが含まれています。また、国労、全逓、炭労(および加盟単組)、鉄鋼労連(および加盟単組)のポスターも数多く展示しています。, 戦後初期の政府や経営者への敵対心をストレートに表したポスター、高度成長期以降の賃上げなど経済要求スローガン中心のポスター、そして70年代後半以降の生活の質の向上を謳ったポスターなど、それぞれ時代を反映したさまざまなスローガンおよびデザインを鑑賞することができます。, ・全日本産業別労働組合会議 (産別会議、13 Posters) ・日本労働組合総同盟(総同盟、9 Posters) ・全国労働組合連絡協議会 (5 Posters) ・日本労働組合総評議会 -1- (総評、18 Posters) ・日本労働組合総評議会 -2- (総評、12 Posters) ・日本労働組合総評議会/日本炭鉱労働組合(15 Posters) ・全労会議/同盟会議/同盟 (9 Posters) ・中立労働組合連絡会議 (中立労連、2 Posters) ・全日本民間労働組合連合会 (連合、6 Posters) ・国際労働運動 (5 Posters), ・鉱業(主に石炭産業)-1- (12 Posters) ・鉱業(主に石炭産業)-2- (21 Posters) ・金属産業-1- (38 Posters) ・金属産業-2- (57 Posters) ・電力産業 (30 Posters) ・国鉄 (43 Posters) ・運輸業 (19 Posters) ・通信産業 (14 Posters) ・建設業 (8 Posters) ・化学産業 (12 Posters) ・繊維産業 (4 Posters) ・食品産業 (7 Posters) ・文化産業 -映画・演劇・印刷・出版など- (28 Posters) ・商業 (1 Poster) ・公務 (29 Posters) ・教育 (13 Posters) ・その他 (8 Posters), ・春闘-1- (60~90年代、10 Posters) ・春闘-2- (国民春闘会議ステッカー、8 Posters) ・春闘-3- (春闘共闘委員会ステッカー、11 Posters) ・春闘-4- (主に週休二日制関係、11 Posters) ・春闘-5- (主に70年代、スト権問題など、14 Posters) ・春闘-6- (80年代、政策・制度要求など、20 Posters), ・第19回(1948年)、第20回(1949年) (24 Posters) ・第21回(1950年) (27 Posters) ・第22回~第26回(1951年~55年) (13 Posters) ・第27回(1956年)、第28回(1957年) (7 Posters) ・第32回(1961年)~第40回(1969年) (11 Posters) ・第41回(1970年)~第50回(1979年) (13 Posters) ・第52回(1981年)~ (11 Posters), 明治時代には社会主義運動も労働組合運動も展開されたが相次ぐ結社禁止、機関紙誌の発禁の中で運動はだんだん過激となり、一部の人の中で天皇暗殺計画が持ちあがった。それが1910年「大逆事件」とされて運動はいったんストップする。1912(大正1)年、統一基督教弘道会幹事であった鈴木文治らにより15人の労働者らを集めて友愛会が結成された。こうして、大正期には労働組合運動はおだやかな再出発となった。「自覚と修養」を掲げた友愛会は、当時社会的地位の著しく低かった労働者に支持を受け、数年後には会員が1万8千人以上となり急速に発展をとげるのである。, 1918年夏、富山県の婦女による米の県外移出に反対した騒動をきっかけとして全国的に米騒動が発生した。米騒動は、青森、沖縄、岩手、秋田県以外のすべての府県ではげしく起こった。これは、政治に大きな影響を与えただけでなく、各階層の人々に大きな衝撃を与えた。この中で、労働組合運動、社会主義運動、農民運動、普通選挙運動、部落解放運動、女性解放運動、学生運動、国粋主義運動などさまざまな運動がスタートないし再スタートしていくのだ。, 1894年の日清戦争から日露戦争、第一次世界大戦と、当時の日本は10年ごとに戦争を体験した。この中で工業は著しく発展した。各地でさまざまな工場が建てられ、繊維工業を中心に輸出も活発となる。それにともなって、工場労働者数も増加した。こうして、第一次世界大戦後にはいわゆる「四大工業地帯」が形成されるのである。, 一方、農業では1881年から19世紀末まで続いたデフレ政策の中で農民層が分解し、全国の農地のうち半分が小作地となってしまった。その結果20世紀初頭には寄生地主制度が確立した。このなかで、農業生産は停滞してしまう。こうした工場の増加、小作地率の増加のなかで、第一次世界大戦後には労働争議や小作争議が全国的にはげしく展開されるようになるのである。, 米騒動の衝撃のさめやらぬ1918年12月、東京帝国大学法学部の学生を中心に新人会が結成された。ここに学生運動が成立する。19年、平塚らいてう、市川房枝らが婦人参政権などを要求して新婦人協会を結成した。友愛会は、1919年大日本労働総同盟友愛会、翌年には日本労働総同盟と名称を改め労働組合として脱皮していった。20年には第一回メーデーが開催されている。大逆事件以来なりをひそめていた社会主義者たちは徐々に活動を活発化していたが、20年末、日本社会主義同盟を結成した。その後秘密裏に日本共産党が結成されている。22年には、部落解放をめざして全国水平社が設立され、日本農民組合が「農は国の基であり、農民は国の宝である」(創立宣言)として結成された。, 以上のように、第一次世界大戦後には、さまざまな階層の人々の多様な社会運動がスタートした。そして、彼らは社会に向かってさまざまな主張をぶつける。その時、新聞・雑誌の刊行とならんで、ポスターやビラが有力なメディアとして使われるようになるのである。, 1923年9月1日、関東大震災が起こった。死者・行方不明者14万人を出したこの大地震では大きな人災も引き起こされた。朝鮮人虐殺事件である。まったくのデマによる流言により数千人に被害が及んだ。亀戸では10人の社会主義者たちが殺害された。さらに、無政府主義者の大杉栄らが殺害される。, このような人心動揺の中にあって、山本権兵衛首相は普選断行の方針を発表した。この普選断行声明に対応して、島中雄三、鈴木茂三郎(戦後、日本社会党委員長)らによって無産政党組織の準備のため、23年政治研究会が結成された。, ところで、普通選挙運動は、明治以来息長く続けられてきている。1920年には全国的に運動は高まり、米騒動で成立した原敬内閣に期待はかかったが、「平民宰相」の原が普選を否定し、運動は一時衰退してしまった。そこへ山本内閣の普選方針が出されたのである。ところがそこへふって湧いて起こったのが虎の門事件だった。摂政宮(後の昭和天皇)が一青年によって狙撃されたのである。弾は当たらず、犯人はその場で逮捕された。この事件によって山本内閣は即日総辞職した。そのため普選法準備作業はいったん止まる。, つづいて、枢密院議長をしていた清浦奎吾が貴族院議員を中心に組閣した。あまりに古色蒼然たる清浦内閣に対して第二次護憲運動が起こり、憲政会・政友会・革新倶楽部によって護憲三派が結成された。総選挙の結果、政府与党の政友本党が敗北し護憲三派が多数を占めた。そのため清浦内閣は総辞職し、憲政会総裁の加藤高明が組閣した。そして、1925年には加藤内閣によって普通選挙法が公布される。これまで選挙権は直接国税を3円以上(当時の米10kgくらいの値段)支払う25歳以上の男子だけに与えられたが、同法で納税資格が撤廃されたわけである。, 普選法にあわせて無産政党の組織が準備されていった。1925年12月に農民労働党が結党されるものの、当局はこれを即日禁止処分とした。背後に共産主義勢力がいるとの理由だった。そのため、翌年3月には左派勢力の人々を入れないで労働農民党が結党された。委員長には日本農民組合委員長、杉山元治郎が就任した。しかし、左派勢力は結党後、党の門戸開放を要求し労働農民党地方支部を結成していく。この中で、労働農民党幹部で右派の人々は党を脱退してしまう。そして、12月には社会民衆党を結成する。さらに、左派に批判的で、かといって右派の行動を好まなかった中間派により日本労農党が結成された。労働農民党は左派が握ることとなり、26年末には無産政党運動は、左派の労働農民党、中間派の日本労農党、右派の社会民衆党の三派に分裂してしまったのである。, 無産政党分裂と同時に労働組合運動も分裂してしまった。1925年、日本労働総同盟から左派が脱退して、日本労働組合評議会が結成された。さらに26年12月には日本労働組合同盟が結成され、日本労農党を支持した。労働組合も左右・中間派に分裂してしまったのである。評議会は結成後、過激社会運動取締法案反対運動や大争議の指導などにはげしい闘争を展開した。こうして、28年4月には結社禁止となった。同年12月には半ば非合法に日本労働組合全国協議会(全協)が結成されるものの34年には消滅した。, 中間派を支持した日本労働組合同盟は1929年労働組合全国同盟となり、36年には日本労働総同盟と合流し全日本労働総同盟を結成するが産業報国運動が起こる中で40年には解散した。, 中間派の日本労農党は1928年には日本大衆党、30年には全国大衆党、さらに翌年には全国労農大衆党となり、32年社会民衆党と合流して社会大衆党を結成した。そして、40年には解散したが、そのあとに大政翼賛会が結成され、すべての政党はなくなったのである。, 農民運動も分裂した。1926年には右派が日本農民組合から脱退して全日本農民組合同盟が結成された。ついで、27年には浅沼稲次郎、三宅正一らが中間派を支持して全日本農民組合を結成した。そのため日農は左翼化したが、28年には日農と全日本農民組合は合流して全国農民組合(全農)が結成された。地主による土地取り上げのために激化した小作争議のなかで、農民戦線の統一の要望が強くあったからである。その後、38年には大日本農民組合となるものの40年には解散した。, 1941年には太平洋戦争が勃発するが、それに先だって無産政党も労働組合も農民組合も存在しない時代が始まっていたのである。, 普選法が成立してもしばらくは総選挙が行われなかった。まず1926年には浜松市議会議員選挙、27年には府県会議員選挙が実施された。この法律で新たに1000万人(25歳以上の男性だけで、女性の選挙権は1945年になって初めて与えられた)が選挙権を得て、1300万人の有権者が誕生した。この1000万の新しい有権者の多数は小作農や貧しい労働者だった。彼らがどの程度無産政党に票を投じるか様子を見るために総選挙の実施が引き延ばされたのである。府県会選挙の結果、無産者が必ずしも無産政党に投票するとは限らないと分かり、28年2月衆議院総選挙が実施された。, 普選法に基づく第一回総選挙では電話による投票依頼、戸別訪問が禁止された。そのかわり、選挙ポスター掲示は比較的寛大であった。色こそ2色までと制限されたが、大きさは新聞見開き大までとされ、掲示場所は所有者の許可があればどこに貼ってもよかった。そのため、選挙運動はポスター大合戦となり、一候補平均3万枚ものポスターが街角の塀や電柱に所狭しとベタベタと貼られたのである。, 投票の結果、無産政党には約50万票が投じられ、8人の無産政党の候補者が当選した。社会民衆党4、労働農民党2、日本労農党1、九州民憲党1であった。, 第一次世界大戦後には、知識人、芸術家も社会運動に参加した。こうして成立した運動がプロレタリア文化運動である。この運動は1921年の『種蒔く人』創刊をもって出発したとされる。同誌は、フランスの文学者アンリ・バルビュスの平和運動に参加して帰国した小牧近江が秋田県土崎で友人とともに創刊したものである。その後東京に進出し同誌は再刊される。秋田雨雀や有島武郎ら進歩的な文学者や思想家の協力を得て、「革命の真理を擁護する」と宣言した。24年種蒔き社の人々によって『文芸戦線』が創刊された。, 以後運動は本格化し、1925年には日本プロレタリア文芸連盟が結成されるのである。この団体に次第にマルクス主義の影響が及ぶようになり、26年には日本プロレタリア芸術連盟が結成された。さらに、28年にはプロ芸は蔵原惟人らの前衛芸術家同盟と合流して全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成された。当初ナップには文学部、演劇部、美術部、音楽部、映画部、出版部の6専門部があったが、29年にはそれぞれが独立することとなった。そして、プロレタリア文学同盟、プロレタリア劇場同盟、プロレタリア美術家同盟以下5つの同盟が結成された。出版部は戦旗社となる。戦旗社が刊行した雑誌『戦旗』は、新宿紀伊国屋書店には「発禁前の『戦旗』を買う人たちの行列がつづき、すぐに売り切れた」といわれるくらい読者が多かった。, 1931年、プロレタリア文化団体の総結集をねらいとして、日本プロレタリア文化連盟(コップ)が結成された。作家同盟や、小川信一、三木清らによって29年設立された民間学術研究団体のプロレタリア科学研究所(所長・秋田雨雀)など11の団体が加わり、大衆との結合がはかられたが、しだいに急進化し警察に検挙されるものが増えて34年には解散した。, ここで、美術と演劇の動向を取り上げよう。この分野に参加した人々が旺盛にポスターを作成したからである。, 20世紀芸術の世界的動向は、確実に日本にも影響が及んでいた。それがフォービズムであり、ゴッホやゴーガンらの後期印象派、あるいはロシアに起こった造形運動の構成主義であった。これらの中に、萬鉄五郎、岸田劉生、柳瀬正夢、村山知義らがいた。彼らの中から前衛芸術運動としての美術運動、演劇運動が生まれるのである。1924年村山、柳瀬などにより三科会が結成され、翌年には築地小劇場で「劇場の三科」という前衛劇が開催された。これはダダイズムの頂点となったものである。ところが、20年代後半になると、彼らはしだいにリアリズムに向かうようになる。こうして彼らはプロレタリア文化運動に接近するのである。, 柳瀬正夢(1900-1945)は、『種蒔く人』同人となり、25年には『無産者新聞』(非合法日本共産党の合法機関紙)の専属画家となった。そして、旺盛に『無産者新聞』購読のためのポスターや雑誌の表紙を描き始める。村山知義(1901-1977)は、1923年構成主義をひっさげてドイツから帰国した。そして、前衛美術・前衛劇の旗手となる。その後、マルクス主義に接近し、リアリズムに向かい26年には柳瀬とともにプロ芸に入会するのである。村山もプロレタリア演劇などのポスターを盛んに描いた。, さて、ナップ再編成後創立された前述のプロレタリア劇場同盟は、東京左翼劇場(村山知義)や大阪の劇団、戦旗座などの団体が集まって創立された。コップ結成とともに劇場同盟はプロレタリア演劇同盟と改称した。これには左翼劇場のほか、新築地劇団、前衛座その他の劇団が加盟した。, 左翼的な傾向を持った劇団は、プロレタリア文化運動の発展とともに全国に多数結成されていた。東京で活躍した左翼劇団の動向を述べよう。前述の日本プロレタリア文芸連盟の演劇部にトランク劇場があった。これが1926年12月には前衛座と改称する。それが27年にはプロレタリア劇場と前衛劇場とに分裂する。しかし、翌年には合同して東京左翼劇場(左翼劇場)となる。34年左翼運動検挙がつづくなかで中央劇場(村山知義)と改称され、新劇運動に転身していく。同年9月「新劇の合同」をはかって新築地劇団の一部、美術座などを集めて、新協劇団が設立された。, 一方、1924年には土方与志が師匠の小山内薫と相談して築地小劇場が設立された(劇場名と劇団名は同じ)。小山内の死後、土方は29年新築地劇団を設立しプロレタリア演劇運動を推進した。そして、40年新協劇団とともに解散を命ぜられた。しかし、この新劇運動のなかからは、滝沢修、宇野重吉、杉村春子ら戦後活躍する名優が数多く生まれたのである。, 第一次世界大戦後の高揚する労働争議、小作争議などに対応して、政府もその解決に乗り出す。1920年には内務省に社会局が設置された。工場法改正や健康保険法を実施したり、労働関係立法制定による労使協調をめざした。前年には原内閣の内相床次竹二郎が発案して財団法人協調会が結成されている。協調会は政財界の寄付金を資金として調査研究のほか、争議の仲裁・調停活動に取り組んだ。協調会は、労働組合法制定をめざしていた。おりから増加していた労働争議、小作争議が、組合が存在しないために争議が激化して暴力沙汰もまま発生していたからであった。例えば、零細工場の労働者全員解雇となると労使は泥沼の紛争となるのだった。それで、従業員たちは使用者側を「殺人鬼」「吸血鬼」呼ばわりをしたポスターやステッカーを街に貼りだしたのである。そこで協調会は、産業平和のため労働組合法を制定して組合を通じて労使が交渉の場につくようにと考えていたのだ。しかし、ついに戦前には労働組合法は成立しなかった。, 1925年には内務省社会局の外郭団体として産業福利協会が設立されている。おりから増加していた労働災害を防止するのが目的の団体である。同協会は、29年には財団法人となり、36年3月に解散して協調会の産業福利部となる。, 産業福利協会は、1926年から災害防止用のポスターの一般公募を開始している。36年の解散までに100回行われたということなので、10年間にわたってほぼ毎月公募が行われていたということになる。このポスターの標語には、「火の用心」「健康増進」「暴飲暴食注意」から始まって、機械に巻き込まれないように「乱髪注意」「安全は能率」というような労働災害防止標語まである。1930年代以後、商業ポスターだけでなく、普選ポスターと相まって、さまざまな公共ポスターが工場内や街中に貼られる時代がやってきたのである。, これらの「公共ポスター」は、戦争が近づくと国策を訴えるポスターとなっていく。しかし、戦争が終わって平和国家になると、ポスターは再び交通安全や火の用心を訴え、国民の保健衛生を保護していく重要な機能を果たすようになるのである。, 片山潜は行き詰まった運動の打開策を政治運動に求め、1901年5月、社会民主党を創立しました。(社会民主党宣言)この日本最初の社会主義政党の創立に参加したのは、片山のほか、幸徳秋水、安部磯雄ら6人でした。しかし、この党はすぐに結社禁止命令をうけ、解散させられてしまいます。さらに、その宣言を掲載した『労働世界』などの各新聞もまた発売頒布を禁止されてしまったのです。大逆事件につながる「冬の時代」が近づいていたのです。, 社会民主党は、安部磯雄が起草した「社会民主党宣言書」を『労働世界』号外として発行した。綱領中の軍備全廃、貴族院廃止、人民の直接投票制度の3項目が問題とされ、解散を命ぜられただけでなく、この宣言を掲載した『労働世界』、『二六新報』などは発禁処分を受けた。 (catalogue-placard B-3) Wherein it is attempted to fix, by precise calculation, several important maxims upon this subject; to solve various problems, and cases of contest; and particularly to balance, whether it be nationally advantageous to insure the ships of our foreign enemies. 秋田(23) 205 p. 7. Club des clubs et la commission par Longepied, fondateur président, et Laugier, secrétaire trésorier. 16 p. (In; Faits préliminaires.). 159 S. Schiff, Hermann: Die Ehrenthaton der Bluse odor die Revolutionen des Jahres 1848.

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