Dildy, Doug; Laurier, Jim (2013-05-20). Seidov, Igor; Britton, Stuart (2014-03-19). The Soviets now admit their part in the Korean War" Air Force Magazine, volume 74, issue 2, February 1991. スターリン全集 第1-13巻 スターリン全集刊行会 訳. 第15回 スターリン全集刊行会訳 1954. ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин, 1878年12月18日(ユリウス暦 12月6日) – 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人(職業軍人ではない)。レーニンの死後、29年間に渡り同国の最高指導者の地位にあった。一般に広く知られている「スターリン」という姓は「鋼鉄の(人)」[注釈 1]を意味する筆名であり、本姓はジュガシヴィリ(ロシア語: Джугашви́ли、グルジア語: ჯუღაშვილი)である。, 1878年、ロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)のゴリで誕生する。正教の神学校で教育を受けるが[1]、のちに無神論に転向してマルクス主義の信奉者となり、1899年には神学校を去って革命家に転身した[2]。, その後、ウラジーミル・レーニンが率いるロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派に加わり、1912年には党中央委員に選出された。1917年の十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握したのち、レーニンのロシア共産党による独裁国家が成立すると、その行政府の有力者となり、1922年4月には党書記長に就任し、同年12月のソビエト連邦創設にも深く関与した。1924年にレーニンが死去すると、続いて起きたレフ・トロツキーとの後継者争いを制し、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させることでレーニンの後継者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派粛清の大義名分としても用いられた。, 以降、人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議議長 を1941年から1953年に死没するまで務めたほか、前述のソビエト連邦共産党中央委員会書記長などの要職を兼任、国家指導者としての立場を維持した[3][4]。, 1928年、干渉戦争に対応して行われた戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済を有する基盤を作り出したと評されている[5]。, 一方で、急速な経済構造の改革は反対派に対する厳しい弾圧と合わさって国民に多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、1932年から1933年の飢饉へと繋がった。後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万人以上[6]、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた[6]。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万人が処刑あるいは追放された[7]。, 1939年、ナチスドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化する中、マクシム・リトヴィノフに一任していた仏英ソ同盟の締結が不調に終わったこともあり[8]、反共主義・反スラブ主義を掲げていたアドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結し、秘密議定書に基づくポーランド侵攻は第二次世界大戦を起こすことになる。世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合(冬戦争)などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。アジア方面ではドイツと同じ枢軸国の日本とも日ソ中立条約を結んだ。, 1941年、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連はイギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加、米国の連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの、従来通りの強権支配を維持して軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じてドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面ではソ連対日参戦でモンゴルの独裁者ホルローギーン・チョイバルサンとともに満州と内蒙古、日本の北方領土や朝鮮半島北部まで攻め落とした。, 連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく[9][10]、国際連合安全保障理事会常任理事国となり、米国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた[11]。ヤルタ会談とポツダム会議では大戦後の欧州情勢についての協議を行って冷戦を始めて鉄のカーテンを築き、ファシズム打倒後の共産主義と資本主義の対立においては西欧諸国と北大西洋条約機構を結成した米国に対し、非同盟を掲げてスターリンと対立したヨシップ・ブロズ・チトー政権のユーゴスラビアを除く東欧諸国とワルシャワ条約機構が後に設立される。アジア情勢を巡っては国共内戦で中国共産党を支援して中国大陸に中華人民共和国を成立させ、第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国、朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していく。, 1953年の死没まで国家指導者としての立場は続き、ソ連内の戦後復興でも主導的な役割にあったことはスターリン様式の建設物が今日でも多く残っていることからも理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、核武装や宇宙開発などに予算や費用が投じられており、前者は1949年のRDS-1で成功し、後者ものちに実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる自然改造計画であった。1953年に寝室で倒れ、病没した。, 死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われたが、その過程でニキータ・フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開され始めた。1956年、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へ変化した。この潮流は、反スターリン主義として各国の左派に影響を及ぼした。, その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を非常に難しくしている。この流れはソ連の後裔国家の一にあたるロシア連邦においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見[12] と、英雄と見なす意見とが混在する状態にある[13]。また、1944年から1955年までのソ連国歌には名前が入っていたが、その次の国歌では名前がなくなっている。, ヨシフ・スターリンは1878年12月18日(ユリウス暦 12月6日)[14]、グルジア語名イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ(იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი)、ロシア語名ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Ио́сиф Виссарио́нович Джугашви́ли)として、ロシア帝国支配下のグルジア(現在のジョージア国)の街ゴリに生まれた。父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリ[注釈 2]はゴリに工房を構える靴職人、母ケテワン・ゲラーゼはレンガ職人の娘であり、共に農奴の家系の出身であった[16][17]。スターリンは両親の第3子であったが2人の兄は幼児期に死没していたため、実質的には長男として育てられた[18]。, スターリンの生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった[18]。父ヴィッサリオンは靴職人として成功しており、一時は工房で10人の従業員を雇うほどの経済的余裕があったが[19]、伝統的なグルジア様式の靴への需要が減ったことで事業は行き詰まった[20]。飲酒に逃避したヴィッサリオンはアルコール依存症を患い、しばしば妻や幼い息子に暴力を振るうようになった[19][21]。1883年までに、ケテワンはスターリンを連れてヴィッサリオンの家を離れ、母子はその後10年間で9回も転居を繰り返す流浪の生活を始めた[22]。1886年、2人は親交のあった司祭クリストファー・シャルクビアーニ (Christopher Charkviani)の家に居候を始める[23]。ケテワンは掃除婦や洗濯婦として働き生活費を稼ぐ一方で、息子に学校教育を受けさせることを強く望んでいた[24]。, 1888年9月、シャルクビアーニ司祭の取り計らいにより、スターリンはゴリの教会付属学校に入学することを許された[25]。入学後のスターリンは他の子供たちと頻繁に喧嘩したが[26]、学業の面では極めて優秀な成績を残した[27]。一方で、幼少期のスターリンは病気や怪我に苦しめられ1884年には天然痘に罹患し、命は助かったものの顔面の皮膚に目立つ痘痕を残した[28]。また12歳の時までに2度に亘って馬車にはねられて大けがを負い[29]、後遺症で左腕の機能に障害を抱えることになった。母ケテワンはスターリンが学校に入ったことを大いに喜んだが、父ヴィッサリオンは息子に靴職人を継がせることを望んでおり、学業には反対していた。ヴィッサリオンはケテワンに「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と溢しており[30]、息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなどの抵抗を続けていたとされる[18]。スターリンは度重なる父親の反対や障害を乗り越えつつ勉学に励んだ[注釈 3]。, 1894年8月、奨学金を得たスターリンは首都トビリシの神学校に入学した[32]。トビリシ神学校は全寮制であり、司祭を目指す約600人の訓練生と共同で生活することになった[33]。当初、スターリンは神学校でも非常に成績優秀だったが[34]、やがて神学に対する興味を失い、成績も下降していった[35]。また、学内で秘密裏に活動していた読書クラブに加わり、禁じられた書籍に触れるようになり[36]、カール・マルクスの著作である『資本論』に影響され[37]熱心なマルクス主義者となった[38]。神学校の記録によれば、スターリンは自らを無神論者だと宣言しており、礼拝への参加や修道士への挨拶を拒否していた[39]。また、1896年には禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持で、1898年には朝の祈禱の欠席や規律違反、反抗的態度などで繰り返し注意や処罰を受けていた[40]。1899年4月、スターリンはトビリシ神学校を去り、2度と戻ることはなかった[41]。, 1899年10月、スターリンはトビリシ気象台の気象局員として働き始める[42]。勤務の傍ら、社会主義理論の宣伝活動を行って多くの支持者を引きつけ[43]、1900年のメーデーには大規模な労働者の秘密会合を組織し[44]、ストライキを呼びかけて実際に決行させた[45]。ロシア帝国の秘密警察であるオフラーナは、トビリシの革命的運動におけるスターリンの暗躍を察知し[45]、1901年3月には逮捕を試みたが、スターリンは逃走に成功し、以降は地下に潜って活動を行った[46]。これ以降、スターリンは友人や支持者からの寄付金に頼って生活し[47]、潜伏期間中スターリンは1901年のメーデーにおけるデモ活動の計画に携わり、メーデー当日には約3000人のデモ参加者が当局と衝突する事態となった[48]。 白揚社, 1929. "The Russians in MiG Alley: The nationality of the "honcho" pilots is no longer a mystery. ナウカ社, 1946. 1942年8月15日、第二回モスクワ会談でスターリンとチャーチルが会談した。スターリンは「神のご加護がありますように」と言い、チャーチルは「もちろん、神は我々の方についていますとも」と頷いた。するとスターリンは「当然ながら、悪魔は私の方についていますから。我々が力をあわせれば、共通の敵を打ち倒せるでしょう」と笑った[314]。チャーチルの演説を引用したのである。, 軍隊の最高司令官となったスターリンは、さらに冷酷無比な存在として恐れられた。スターリンとの電話の際、将軍たちはたとえスターリンが目の前にいなくても誰もが直立不動、「気をつけ」の姿勢になったとされる。独ソ戦では、敵前逃亡兵は銃殺し、戦車で轢き殺し、あるいは懲罰大隊に入れ地雷原を歩かせる酷薄な命令を出している。さらに、逃亡兵の家族はシベリア送りにされた。帝政時代に兵士を自ら看護したロマノフ家皇女のオリガ、タチアナとは正反対で、自国の兵士を駒としか見ていなかった[要出典]。, また、一度でも敵の捕虜になっていた兵士をスターリンは「スパイの可能性がある」として決して信用せず、帰還しても彼らは強制収容所へ送られた。晩年の猜疑心が強かった時期には、はるか以前の第一次世界大戦時に捕虜になった者を処刑するほど疑い深かった。独ソ戦中、ドイツ軍はロシア人の捕虜に対して過酷な待遇をしたが、スターリンは自国民の捕虜に対する赤十字の調査も拒否し続け、挙句の果てにはロシア人の捕虜が収容された収容所を爆撃させている。爆撃機からばら撒かれたビラには「祖国を裏切った者たちへ」と書いてあった。, 身近な部下には配慮を示した。通訳のベレズホフが仕上げた電文を見て気に入らないと「君は何を聞いていたのだ!」と怒った。しかしただ突き放すのではなく、重要な部分を口述して修正させた[315]。, スターリンの権力は絶大であり、他人に対して残忍に振る舞うことも平気であった。スターリンに対しては、誰一人として自分の意思を表明できない状態が生まれた。スターリンの下に友人として招かれた人間がスターリンと一緒に座っていると、そのあとにどこに連れて行かれるのか、すなわち自宅に帰れるのか、投獄されるのか、見当もつかない、ということがあったという。「人民の敵」と見なされた共産党のある幹部は、自分がいかなる陰謀にも犯罪にも加担したことはないが、取調官からひたすら拷問を受け続けた。その幹部は、党の正しさを信じつつ死んでゆくつもりだ、と言い残し、2日後に銃殺された[要出典]。, スターリンは、妻子などの近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えた。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、長男のヤーコフをもうけるも、エカテリーナは25歳で病没した。, スターリンは息子のヤーコフに対し厳しく接したため、ヤーコフは拳銃自殺を試みたが失敗した。それを知ったスターリンは「やつは拳銃を真っ直ぐに撃つことすらできない」と言った。一方で、独ソ開戦後に長男のヤーコフが砲兵中尉として出征した際には「祖国の為に貢献して来い」と直接激励している。後日彼がドイツ軍の捕虜になったとき、スターリングラード攻防戦での戦いで降伏したドイツの陸軍元帥フリードリヒ・パウルスと、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは「中尉と元帥を交換する馬鹿が何処にいるのかね」「ナチスに寝返った息子などいない」と返答して申し込みを拒絶。「私の息子ヤーコフの命はあなたの手中にある。あなたが捕虜数百万人全員を解放するか、あるいは私の息子は彼らと運命をともにするだろう」と述べ、人質交換には一切応じなかった[316][317]。実質的に自分の父親に見捨てられる形となったヤーコフはこの事実を宣伝放送で聞いて衝撃を受け、ひどく落胆したと伝えられている。それから暫くして、ヤーコフは自身が収容されたザクセンハウゼン強制収容所内で死亡した。死因や経緯については不明瞭な部分が多く、鉄条網に向かって射殺されたとも[318]、収容所内の電気柵に突進して自ら命を絶ったとも伝えられている[319]。一説として、ヤーコフは収容所で他の捕虜と行進させられていたとき、突然看守の制止を振り切り鉄条網に突進し自身を「撃て!」と叫び、射殺されたという逸話が知られている。後に部下から息子の最期を聞いたスターリンは、塞ぎ込んだまま食事に手をつけなかったという。, 2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとの間には、次男のワシーリー・スターリンと娘のスヴェトラーナが生まれた。ナジェージダは1932年に亡くなり、公式には「虫垂炎による病死」と発表された。彼女はスターリンとの口論の後に遺書を残して拳銃自殺を遂げた。娘のスヴェトラーナによれば、その遺書は「一部は個人的、一部は政治的」なものだったという[320]。テレビ局のA&Eによると、一部のロシア人はスターリン自身が夕食の席で起こった口論の後にナジェージダを殺害したと信じている。歴史家は、最終的に彼女の死が「スターリンの現実との繋がりを断ち切った」と主張している[321]。, 次男のワシーリーも異母兄ヤーコフ同様にスターリンから冷遇されたが、要領の良さと周囲が気遣ったこともあって空軍中将まで昇進した。しかし、一パイロットとしては26回の出撃で撃墜2機・協同撃墜3機と少ないながら戦果も挙げたものの、高級将校としては能力も経験も不足していた。ワシーリー自身が責任者を務めた空軍記念日でのモスクワ軍管区の空軍部隊による観閲飛行の際、父であるスターリンに見栄を張りたいと考えてか、悪天候の中にも関わらず強引にB-29のコピーであるTu-4爆撃機を飛行隊に参加させ、結果として1機のTu-4が墜落事故を起こした。観閲飛行終了後にスターリンの別荘で行われた会合にも参加しなかった事で、度重なる失態に愛想を尽かした父スターリンに要職からは解任された。更にスターリン死後に彼の庇護者であったベリヤが政治闘争に敗れて処刑された事と、新たに台頭したニキータ・フルシチョフがスターリン派に対する粛清を進めた事に伴い、ワシーリーの立場は益々悪化、失脚し軍籍も剥奪された。のちに、略式裁判で懲役8年が確定された事で身を持ち崩した。1960年1月11日、ワシーリーは1年程早く刑期を終えて釈放された。釈放時には彼を取り巻く政治情勢は軟化しつつあり、元将官としてモスクワ市内の住居と年300ルーブルの恩給が支払われた。また空軍中将時代の軍服や勲章の着用も許可されたが、極度の酒好きがたたり、1962年にアルコール依存症で死んだ。, 娘のスヴェトラーナは可愛がられたこともあり、スターリンの自宅で行われたチャーチルとの私的な会談にも同席した[322]。だが彼女にしても、最初の恋人を「イギリスのスパイ」とみなされてシベリアに追放されている。のちにほかの男性との間に子供をもうけた際には祝福の手紙を貰ったが、結局彼女はソ連を捨てて1967年にアメリカに亡命。彼女は亡命先のアメリカで回顧録を出版し、その中で「父はいたるところに敵をみた。孤独感と絶望感からくる弾圧マニアだった」と述べている。, スターリンは3人目の妻としてラーザリ・カガノーヴィチの姉妹であるローザ・カガノーヴィチと結婚したと見られている[323]。シベリアに追放されていた時期にスターリンは不倫関係にあった女性との間に非嫡出子のコンスタンティン・クザコフをもうけたとされる。2001年3月、ロシアの民放テレビ局「NTV」は、ノヴォクズネツクに住む、それまで知られていなかったスターリンの孫ユーリー・ダヴィドフにインタビューを試みた。彼は、父親が自分たちの血統について話したと述べたが、スターリンへの個人崇拝に反する運動であるので黙っているとも話した。, スターリンはほかに愛人も作ったが、彼女らがスターリンの女性関係の派手さや残忍さを見かねて批判すると、彼女らはいつの間にか姿を消したり、不審な死を遂げたという。, レーニンは自身の晩年にスターリンと激しく対立している。とくにグルジア問題をめぐってスターリンの「大ロシア主義」を批判、スターリンの書記長職からの解任を提案するに至った。しかし、スターリンの独裁政治はレーニンの独裁政治と類似点が見られるという指摘が多くある。例えばレーニンは反革命派を「害虫」と呼んで弾圧し、さらに農民から食料を強制徴発し飢餓による殺戮、帝政派を根絶させるためにクラークやコサックへの大量虐殺を行ったが、スターリンはこれらの特徴を引き継いだ。スターリンは大粛清では赤軍の将校を一掃し、さらにはウクライナにおけるホロドモールによって数多くの死者を出すなど、徹底した恐怖政治を敷いた。さらに秘密警察による罪状のでっち上げや強制収容所への収容も共通している。ゴルバチョフはスターリンだけでなくその元凶のレーニンも批判した。, スターリンは元々人間不信だったのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちなパラノイアが加わったことにより、猜疑心が極限までに加速する。特にスターリンは第一次五カ年計画とそれに次ぐ大粛清を行ったことによる死者とそれに伴う犠牲者の恨みを忘れることができず、この結果、自分は常に命を狙われていると偏執的に思い込むようになった。日常生活では毒殺を極度に恐れたため、彼が口にする飲食物は全てNKVDの管理下にある専用の農場や養魚場で採取され、専門家により入念に検査された。フルシチョフは、スターリンが「どこでも、誰に対しても、あらゆる事柄に関しても、敵・スパイ・裏切者の姿を見出した」と述べている。晩年にはベリヤ、フルシチョフなど有力な部下達の忠誠心を疑い、彼らの部屋を全員秘密警察に盗聴させている。, 権力の絶頂期の頃のスターリンは、部下に対して常に粛清をちらつかせながら接するようになった。スターリンの質問に「No」の返事を言うと、意見を言っても、曖昧な返事でも、返事を即答できなくとも、反乱を真剣に疑われ即粛清(死刑を含む)であった[要出典]。スターリンには常に2人のボディーガードがつきそい、腹心モロトフとの会見にも同席した[324]。一方で執務室に入るためのボディーチェックは存在せず、入室手続きも行われなかった[325]。デスクにはブロンズ製のカップが置かれ、太い青エンピツと赤エンピツが入っていた。重要外交書類に青エンピツで署名すると、全行政機関が即座に行動を開始した[326]。, この性向は晩年に近づくほど強まり、「自分の周りにいる人間は全て敵である」という妄想に悩まされていた。あまりの恐怖に人前に出ることはほとんどなくなり、部屋から出ることは稀になっていった(ちなみに被害妄想の典型的な症状である)。さらに、晩年には認知症も入り、スターリンの住居には厳重な警備が敷かれるようになった。軍隊が攻めてきても、2週間持つほどの重装備であったという。スターリンの部屋は複数に分かれており、どこに泊まるのか誰にも知らされず、スターリンしか持っていない鍵を、部屋に何重にも施していた。フルシチョフの回想によると、同志との会話で、スターリンの部屋へ行くとまた鍵が増えているのだろう、と話していた。無論、勝手に入ろうものならば容赦なく粛清された。ちなみに、スターリンが部屋に入ってからまずやることは、ランプを持って部屋を隅々まで検査することであった[要出典]。, スターリンの元通訳は、信じていたヒトラーに裏切られた屈辱と恐怖から、元々強かった猜疑心が病的になったのではないかと述べている[324]。, スターリンは帝政ロシア時代のイヴァン雷帝を信奉していた。エドワード・ラジンスキーによれば、スターリンはイヴァン雷帝の政策を高く評価していており[327]、またセルゲイ・エイゼンシュテインに雷帝の生涯を描かせた映画の製作を命じ、雷帝の英雄としての側面が強調された第1部を絶賛した[328] が、第2部における雷帝やオプリーチニキの描写には強い不満をいだき、イヴァン雷帝を演じた俳優ニコライ・チェルカーソフとエイゼンシュテインをクレムリンに呼びつけ、夜を徹して議論したという。一方で、スターリンはイヴァン雷帝の粛清の詰めの甘さを批判していたとされる[327][329]。, スターリンは宿敵であるヒトラーを高く評価し、親近感を抱いていたと言われている。イギリスの外務大臣(当時)アンソニー・イーデンと会談した時、スターリンはヒトラーを賞賛するような発言をした。しかしイーデンが唖然としているのに気が付いたスターリンは慌てて、「ヒトラーは欲望の限界を知らないが、自分は満足というものを知っている」と発言し、西ヨーロッパへの野心がないことを表明したという。1934年、ヒトラーがエルンスト・レームを抹殺した事を知ったスターリンは「ヒトラーとは実にたいした奴だ!政敵を片付けるには一番良い方法だ」とミコヤンに語った[330]。, 1940年11月12日、モロトフとウラジーミル・デカノゾフソ連大使、通訳2人がヒトラーの執務室を訪れた際、ヒトラーはモロトフと握手をかわし「スターリン閣下は歴史的人物であり、私もそうなるでしょう。是非閣下と会談したい」と述べた[331]。帰国したモロトフが伝えると、スターリンは有頂天になったという[330]。, なお、ヒトラーもスターリンを自分に唯一匹敵する指導者として評価していた。独ソ戦中の1942年には「スターリンは我々の無条件の尊敬に値する。彼は彼なりに並々ならぬ人物であり、半ば野獣、半ば巨人である」と言明した[332]。また「ロシアをあの男にまかせるのも悪くない。もちろん我が国の管理下でだが。彼はロシア人を取り扱う方法を心得ているからな」と夕食会で述べた[287]。ベルリン陥落寸前の1945年にも、アルベルト・シュペーアの前でスターリンを賞賛していた。ヒトラーは頑固な反共主義者として知られるが、一方でボリシェヴィキの政策に影響を受け、一党独裁制、統制経済、秘密警察、強制収容所、宣伝手法をソ連を参考に創設したと言われる(ベニート・ムッソリーニのイタリアにはスターリン時代のソ連やナチスの様な大規模な収容所や秘密警察の組織は存在しなかった)。さらに、トゥハチェフスキーやエルンスト・レームのような政敵の排除のやり方を、ヒトラーとスターリンはともに参考・利用した説も存在する。, ヒトラーとスターリン、両者と握手をしたことがあるワレンチン・M.ベレズホフ(Valentin M. Berezhkov モロトフ、スターリン元通訳)によれば、2人の握手は「そっけなく、冷淡」である点でよく似ていたという[333]。ベレズホフによれば、スターリンは敗者ヒトラーに配慮し、わざとヒトラーの遺体は見つからなかったと宣伝した[334]。彼は一連のスターリンとヒトラーの交流を「残酷なロマンス」と評した。, スターリンは、少年時代からユダヤ人に対する嫌悪感を薄らながらも抱いていたが、ヒトラーのような強迫観念とは異なり、帝政時代のロシアではごくありふれた偏見の域を出ないものであった。「額に汗して働かぬ人々」というのが、長年スターリンが持っていたユダヤ人観であった。指導者になってからも、党・政府の役職にラーザリ・カガノーヴィチやマクシム・リトヴィノフなどユダヤ人などを重用し、反ユダヤ主義は犯罪であるとして糾弾しており[335]、公式には自身の反ユダヤ感情に触れることを避けていたが[336]、私生活の場では、連日催されていた深夜の酒宴などにおいて、仲間たちとともにユダヤ人に対するエスニックジョークを話題にしては楽しんでいた。また、ロシアにおける反ユダヤ主義はスターリンの支配下で大幅に高まったことが指摘されている[335][337]。第二次世界大戦中には娘スヴェトラーナの最初の恋人、アレクセイ・カプレル (Aleksei Kapler) がユダヤ人であったことから、彼を逮捕してヴォログダ収容所での5年間の重労働刑を宣告している[338]。, スターリンは商業民族的なユダヤ人に定住地域を与えて農民に変えようとロシア極東にユダヤ自治州を設置したが、これは失敗した[339]。また、当初はダヴィド・ベン=グリオンが社会主義者だったことやキブツとソ連の農業集団化政策の類似点から、国連でのパレスチナ分割決議への支持や米国に次いでのイスラエル国家承認、チェコスロバキアを通じた武器援助を行うなどイスラエルに対する支援を行ったが[340]、冷戦が進行するとともにイスラエルは西側陣営につき、ソ連は反シオニズムを掲げることになり、スターリンはユダヤ人(特にシオニスト)に対する強迫観念に取り付かれるようになり、ソビエト体制の転覆を企むシオニズムの手先・破壊分子としてソ連国内のユダヤ人を危険視するようになった[335][341]。その代表例が医師団陰謀事件である。なお、スターリンは最晩年の1953年、「ユダヤ人問題の最終的解決」と称してソ連国内のユダヤ人全員をシベリアおよびカザフスタンに強制収容する計画を実行する予定であったといわれるが、スターリンの死によってこの計画は中止となり、後継者のベリヤにより逮捕されていたユダヤ人も全員釈放されたことで実現はしなかった[335][341]。, カフカースには元々極端な反ユダヤ主義はなかった。昔から多くの民族が隣り合って住んでいた地域であり、ユダヤ人もその民族の一つに過ぎなかった。グルジアに住むユダヤ人は、その多くが仕立て屋、貸金業者、靴職人などであり、いずれも裕福であったためか、靴作りの技術が優れていたためか、スターリンの父親である靴職人ヴィッサリオンは彼らを憎悪(嫉妬から)し、幼い息子に対してユダヤ人に対する憎悪を教え込んだ[342] ことも、スターリンの反ユダヤ感情の一因である。, 残虐極まりなく、悪の帝王そのもののような印象を受けるが、外部からの訪問者と話すときは常に口元に微笑を浮かべ、謙虚であり、他人を持ち上げるなどして、好感を持たれた男性であった。話相手を魅了する力があり、酒席ではその力が倍増した[343]。日本の松岡洋右外務大臣は、スターリンとモロトフの接待で泥酔し、抱えられてクレムリンを退出した[343]。1939年8月23日、独ソ不可侵条約締結後のカクテルパーティーにおいて、訪ソと同時にドイツより運搬してきた「新第三帝国首都模型」を披露したヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相はスターリンと大いに意気投合した[344]。帰国後、ヒトラーに「スターリンとモロトフは実に気持ちの良い連中です。懐かしい党友に囲まれているようでした」と報告したとされる。1941年12月、イギリス外相アンソニー・イーデンに独ソ戦勝利を断言してイーデンを安心させる一方、腹心達には「レーニンが築いたものを失った、破局だ」と弱音をはいた[313]。, レーニンの『大会への手紙』の存在を知ったとき、スターリンは書記長の辞任を表明したが、その表明は断固たるものではなかった。スターリンは、1920年代にも辞任を2度表明しており、第15回党大会のあとにはより断固たる形で辞任を表明している。トロツキーとジノヴィエフの合同反対派は敗北し、大会はこれを組織的に手続きした。この大会後の第1回中央委員会総会にて、スターリンは中央委員たちに対して「最近までこういう事情があったと思う。つまり、反対派にたいしてある程度対抗してきた多少とも峻厳な人間として、党は私を書記長のポストに置く必要があったことだ。反対派は現在、粉砕されただけでなく、党から追放された。ところが、われわれにはレーニンの指示があり、私の考えでは、これを実現しなければならないと思う。したがって私は、書記長のポストからの解任を総会に要請する。同志のみなさん、党はこれによって得するばかりで損はないと、私はみなさんに請け合う」と要請した。しかし、この頃のスターリンの権威は増大しており、党内では団結を目指して闘い、さまざまな分派たちに容赦なく反論を加える体現者となった。書記長の辞任は再び思いとどまるよう説得されたが、スターリンは慰留されることを確信していた。解任要請も、自分の立場を強化するためであった[345]。, トロツキーとの権力闘争の時、トロツキーがレーニンの遺書を公表し、遺書通りにトロツキーらがスターリンに書記長の座を降りるよう要求した際、スターリンは一切反論せずに反省の弁を述べ、書記長の座を降りることを明言している。しかし、この時スターリンは、「私はしがない事務屋ですが、あなたたちのお力になりたいのです」などと持ち上げてカーメネフたちに接触していた。既に地盤を固めていたスターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフらの反対によって、書記長の座に留まったのである。その後カーメネフらがトロツキーの権力を殺ごうと人民委員の座を降りるよう提案した時、スターリンはトロツキーを擁護し、提案に反対している(のちに解任し、追放した)。これはほかの党員に自身の寛容さを見せるためであった。しかし、政敵を超える権力を持ち始める頃からスターリンはその本性を現し始め、ほかの党員が気付いたときには、もはやどうにもできないほどの絶大な権力を握っていた。スターリンは腹に一物も二物も持ち、本性を全く相手に感じさせず、仮面を被ることに長けていた。このため、スターリンが本性を現すまで、古参党員の多くは彼のことを取るに足らない小物と考えていた。, 大抵は粗野で、傲慢で、虐待的であったスターリンであったが、主に政治家への訪問者に対しては魅力的で礼儀正しく振舞った[346][347]。, スターリンは、誰かと一対一で話し合うのは極めてまれであった。スターリンは孤独であり、心を通じ合える相手、説得すべき相手、弁明すべき相手もいなかった。スターリンは人前で演説するのを好まなかった。演説は率直で分かりやすかったが、思考の飛躍、警句、迫力に欠けていた。グルジア訛りが強く、覚えたロシア語もぎこちなく、単調であったため、表現力に乏しかった。集会、会議、デモ行進で演説した回数が、レーニンの側近の中で最も少なかったのがスターリンであった。スターリンは、指示や指令を出し、論文や記事を書き、色々な政治的出来事について新聞に評論を発表する方を好んだ。凡庸な社会政治評論家であったスターリンの結論の出し方はいつも断定的であった。スターリンの新聞論調は黒白がはっきりしており、第3の意見は認めなかった。ラテン的な明確さが、スターリンの単純明快な魅力であった[348]。, プロパガンダ用の修整写真や肖像画でのスターリンは、ロシア貴族風の大柄で威厳のある人物として描かれているが、資料や証言から、実際の風貌は大きく異なっていたとみられている。, スターリンの下で働いた通訳ベレズホフは、初めて恐るべき上司に会った瞬間、イメージとあまりにも違っていてショックを受けたという[349]。「背が低くげっそりし、天然痘の瘢痕で覆われた顔は疲れて土気色、軍隊服が貧弱な肉体を締まりなく包んでいる」と表現している(もっともモスクワ攻防戦の最中で、スターリンにとって最も厳しい時期ではあった)[349]。スターリンに会ったことがある国連大使[誰? スターリン・ブハーリン著作集 第15巻. By Robert Gellately. リッベントロップ述 「ヨーロッパ及び東亜建設の戦ひ」『戦の責任者は誰か』、日本産業報国新聞社出版部、1941年. 白揚社, 1930.2. Osprey Publishing. Superpower politics:change in the United States and the Soviet Union. 資本主義安定の最新現象と國際状勢について ブハーリン共著 岡田, 鳥海共譯. 『独裁/スターリン』(Stalin)は、HBO製作による1992年のテレビ映画である。ソ連指導者ヨシフ・スターリンを描いた伝記映画であり、ロバート・デュヴァルがスターリンを演じる。 ゴールデングローブ賞は3部門を受賞した 。 撮影はハンガリーのブダペスト、ロシアのモスクワなどで行われた 。 ヨシフ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin) 職業:政治家 誕生:1878年12月18日 死没:1953年3月5日 出身:ロシア帝国 ソビエト連邦の第2代最高指導者.1878年、ロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)のゴリで誕生する。 早川書房, 1975 のち文庫. Encyclopedia of Useless Information.Naperville, Illinous:Sourcebooks, Inc. 2007. ソビエトのプロパガンダは、ヨシフ・スターリンを弱点のない冷徹な鉄人として描き出した。だが実際のところは全く違った。ソ連の指導者は恐怖や嫌悪で尻込みをしていたのだ。 「スターリン」は英語でどう表現する?【単語】Stalin...【例文】STIRLING ENGINE...【その他の表現】de‐Stalinization... - 1000万語以上収録!英訳・英文・英単語の使い分けならWeblio英和・和英辞書 "North Korea's Alliances and the Unfinished Korean War" . 新人物往来社, 1971. The American Historical Review, Vol. スターリン・ブハーリン著作集 第10卷, 報告と討論の結語 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編.

メガネ ずれる 鼻低い, パーティー テーブル 飾り付け, Pixiv 新着 表示されない, 東浦 イオン スリー コインズ, イオンシネマ 日の出 クーポン, プレゼント 渡し方 面白い, ドローン スポーツ 分析, 貧乏 食事 子供, ジンバル おすすめ ミラーレス,